第八話 逡巡 5







 聞こえるはずのない波音が聞こえる。琉球に戻ってしまったのだろうか、と考えながらユルは目を開いた。


 傍らで、ククルがベッドに突っ伏すようにして眠っていた。その手にもう小刀はなく、浴衣の合間から覗く首飾りの碧い宝石がゆらゆらと光を湛えている。


 体を起こし、大分疲れが取れていることに気付く。


「……大したもんだな」


 起こさぬように小声で呟いて、ユルはベッドから降りた。


 そっとククルを抱き上げると、ううんと彼女は呻いた。


 ベッドに寝かせてやろうかと思ったが、明日の朝、喚いて抗議されても敵わないので、彼女の希望通りリビングで寝かせることにした。


 足で扉を開けて、リビングに出る。電気をつけても、ククルは起きなかった。


 おざなりに敷かれた敷布団替わりの毛布に横たえ、大きく開いてしまった襟を直してやる。掛布団をかけたところで、ユルはまじまじと彼女の寝顔を見下ろした。


『……倫先生のこと話す時、表情が和らぐもの』と言われたことを、思い返す。さっきの海の底にも似た碧い光のせいもあってか、久方ぶりに倫先生との生活を思い出してしまった。




 逃亡した先の、人魚の島。


 倫はそこでも、ユルに色々と教えてくれた。大陸の皇帝にも拝謁した家庭教師が、まさか家事も得意だと思っていなかったユルは、大層驚いたものだ。


「おや、ユルくん。料理は頭を使うのだよ。他の家事もね。女人にだけ任せていては、もったいないというものさ」


 倫は家事をむしろ楽しんでいたようだ。


 それだけでなく、倫は授業も続けてくれた。教科書はなくとも、倫はほとんどの書物の内容をそらで覚えていた。それを島人から買った紙に書き写しながら、倫はユルに知識を与えた。


「勉強は止めてはだめだよ、ユルくん」


「どうしてだ、先生。オレはもう、城に帰るつもりはないのに……」


「どんな境遇にあっても、学問は君を助けてくれるはずだ。だから、続けなさい。一見役に立たないと思っても、いずれ役に立つ。いや……役に立たなくてもいい。ともかく学問は君の血となり、肉となるのだから」


 その時、ユルは倫の言ったことを完全に理解できたわけではなかった。だが、ほとぼりが冷めたらこの諸島から発って大陸に行く予定にしていたこともあり、そこで学問は必要になるかもしれないと、漠然と納得しただけだった。


 粗末な暮らしだった。ずっと御内原ウーチバラで暮らしていたユルは、戸惑いっぱなしだった。身の回りのことを自分でして、倫の時間が空けば学問を習って。


 穏やかな時間だったけれど、自分の存在が清夜を弑した事実は頭を離れず、ユルは時々煩悶した。布団に入った後、黒々とした絶望をどうにもできず、のたうち回ることもあった。


「ユルくん。これからは、王子になろうとしなくていいんだ。自分らしさを見つけるために、色々なことを経験しなさい」


 倫は優しく諭してくれたけれど、長年影武者としてしか生きて来なかったユルは、どうしていいかわからなかった。


 字は、清夜の字を真似たもの。太刀筋は彼の太刀筋に、合わせたもの。学問も清夜と同じぐらいできる。


 性格はショウとは大分違うけれど、いざとなれば自分を抑えて彼のように振舞える。品よく笑える。優雅に舞える。朗々と歌える。


 ユルにとって、自分らしく生きる、というのはとても難しいことだった。


 懊悩しながらも、二人暮らしの日々は続いた。その平和な時間は、幸せに似ていて。簒奪者である自分が幸せになることに強い抵抗を覚え、ユルは板挟みになった。


 その幸せも、そう時間が経たない内に奪われたのだが――




「んー」


 ククルのうめき声で、ユルはハッと我に返った。


 電気の光が眩しいのか、ククルは眉をひそめていた。


 悪い悪い、と呟いてユルはククルの目を平手で覆ってやる。


 すぐに立ち上がり、電気を消して寝室に帰る。


 トウキョウの夜は、完全に暗くならない。人工的な光が、窓の外に見える。


 あの人魚の島で見た夜空とは、似ても似つかない。ここは異国だ。生まれた時代なら、行くことも大変だった……大和。


 急激に、疲労と眠気が襲って来て、ユルは倒れ込むようにしてベッドに横たわった。




 過去を回想したのが、悪かったのだろうか。昔の夢を見てしまった。


 ショウはとても優秀で、ユルは追いつくのが大変だった。だけど、一つだけユルの方ができることがあった。――剣術だ。


 大和から招かれた剣士の師範の下で、ショウとユルは剣をならった。


 双子でもないのに、ショウにそっくりなユルのことを師範が初め不気味そうに見ていたことを、よく覚えている。


 だが、時が経つ内に彼は、そんなことを忘れたように熱心に指導してくれた。ユルは、筋があると褒められた時、とても嬉しかった。


 御内原に帰ったユルは、廊下の向こうから女官を連れて歩く聞得大君を認めて、声をかけた。


「母上」


 あの時はまだ、あの女のことを母と呼んでいたのだ。


「……おや。なんだか、嬉しそうだな。どうした?」


「オレ、剣術の先生に褒められたんだ! ショウも、ユルはすごいねって言ってくれた!」


 そこで、聞得大君の眉がひそめられる。


「王子より、お前の方が剣術で上になったと、言いたいのか」


「え? う、うん」


 きっと、喜んでくれると思ったのだ。だが、いきなり頬を張られてユルは目を見張った。


「この、痴れ者! 王子に勝ってはならん!」


「どう、して」


「どうして、だと?」


 顔を近付け、母は笑った。


「どうしても、だ。お前は、清夜王子の写しにならねば。勝っても負けても、いかん。次は、手加減するのだぞ。警戒されては、本も子もない!」


 もう一度母はユルを打ち据え、戸惑う女官たちに「捨て置け」と告げて、行ってしまった。


 廊下に座り込んだユルは、飛んで来た女官に助け起こされながら、呆然として母を見送った。




 ――――勝っても負けても、いかん。




 頭の奥で、あの女の声が響く。


 目を開けると、窓から陽の光が差し込んでいた。起き上がり、窓の外に視線をやる。


 かつて暮らしていた世界とは似ても似つかない、近代都市。あの紺碧の海もない、異国。


 故郷が全く恋しくない、と言えば嘘になる。だけどそれ以上に、離れて安堵した面がある。


 脳裏で響く声は、外から聴こえて来た車の音で、かき消されるようにして、聞こえなくなっていった。

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