第三話 祝祭 6
外に出て、空を仰ぐと満天の星が広がっていた。遠くから、潮騒が聞こえる。
「ユル、ちょっと浜辺に行かない? 涼みたい」
だめ元で聞いてみると、「ああ」とあっさり了承してくれた。
背負われたまま、ククルは目を閉じる。また、ティンのことを思い出してしまう。ユルが大きくなったからだろうか。
ククルの中のユルは、まだククルとそう背丈も変わらない生意気な少年で。ずっとそうだと思い込んでいたから、こうやって変わってしまったのが受け入れられないのだろうか。
最初は――形式上兄になったけど、兄だったティンとは到底似ても似つかない少年で。隠し事ばかりして、ククルに容赦ない言葉を突き付けた。そんなユルの印象が強すぎる。
ぎゅっと回した腕に力をこめ、首筋に顔を埋める。そんな甘えるような姿勢を取ってしまっても、ユルは文句を言わなかった。以前なら、言っていただろうか?
なんだか花の香がする。
「いい匂いするね……花のにおいだ」
「ああ……公民館のシャワー借りたんだが、やたらいい匂いのするシャンプーしか置いてなかったんだよ」
ユルの答えに、思わず笑ってしまう。
「ていうか、匂いを嗅ぐなっつの。犬かよ」
毒づかれたけれど、ククルは笑うだけにしておいた。
「着いたぞ」
浜辺に着き、ユルはククルを岩の上に下ろしてくれた。あつらえたように、座りやすい岩だった。
ユルはその隣に座り、夜の海を見つめる。
海の香を含んだ、ぬるい風が吹き抜ける。
「お祭り疲れたけど、成功してよかったね」
「ああ」
「……本当に、代役ありがとうね。魔物も、舞いながらよく斬ってくれたなあって思って」
にっこり笑って、彼の横顔を仰ぐ。ユルは表情を変えずに、ククルを横目で見た。
「ユルは本当に舞も歌も上手ですごいね」
「……」
ユルはどうしていいかわからないかのように、視線を彷徨わせた。
「……ユルってさ」
「うん」
「褒められるの、慣れてないでしょ」
指摘すると、ユルは大仰なため息をついた。
「……まあな。あんまり、褒められたことないんだ」
「え……」
「オレは、何でもできて当たり前――だったからな。清夜が何でもできたから、それに追いつくのは当然だった」
ユルは前かがみになって、左手で頬杖をついた。
「倫先生は褒めてくれなかったの?」
「褒めてくれたけど、ショウとずっと同じ授業受けてたからな」
「あ、そっか……」
倫先生はきっと、公平な人物だったのだろう。二人同時に褒めたはずだ。
清夜王子はユルを褒めたこともあったのかもしれないが、それはユルにとっては素直に受け取れない誉め言葉だったろう。
つまり――本当の意味で、ユル個人で褒められたという経験がほとんどないに等しい……ということだろう。
「私も、ばば様や両親にはあまり褒めてもらえなかったんだけどね……。兄様が、小さなことでも褒めてくれたの」
たとえ大したことのない物事でも。ククルが何か成功させたりすると、ティンは大げさなほど褒めてくれた。ククルはすごいね、と。
今思えば、あの兄の行為がククルのちっぽけな自信につながったのかもしれない。
「私は、兄様に褒められるとすごく嬉しかったんだ……。だから、ってわけじゃないんだけど――私は、ユルがすごいって思ったら褒めるからね。お世辞じゃないからね」
自分でも何が言いたいかわからなくなってしまって、少し恥ずかしくなる。
「そのー、ユルの舞はすごかったし、歌も上手だったし私は……すごいと思いました」
子供の感想のようになってしまい、思わずうつむく。ちらっと視線だけ上げると、ユルが少し笑っているのが見えた。
珍しい、優しい笑顔。すぐにその表情は失われ、真顔になってしまったが。
「……ま、お前も今回はよくやったじゃねえか。オレからも、褒めてやるよ」
「そ、そう? でも、足引っ張っただけな気がするけど……」
「オレはお前の練習も見てたしな。それに、魂込めも……お前が気付いて、あれをしなかったら大変なことになってただろうからな」
褒められ、悪い気はしなかった。それどころか、とても嬉しい。自然と口元が綻んでしまう。
「……なあ、ククル」
名前を呼ばれて、ククルは顔を上げてユルを見つめる。彼は恐ろしく、真剣な顔をしていた。
「お前にとって――オレって、何だ?」
その質問に、ククルは虚を突かれる。
何って――。
「ユルは、私にとっての……」
以前、美奈と綾香には、ユルは自分の“大切な人”だと言った。でも、それは二人には自分たちの関係性が理解できないと思ったからだ。
(そう、私たちを表すのに一番ふさわしい言葉は――)
ククルは潮騒に耳を傾けながら、ゆっくりと考えた。沈黙が、重い。ユルはどういう答えを求めているのだろう。
彼が何を求めているにせよ、ククルの心に浮かんだのはただ一つの単語だった。
「ユルは――私にとっての、大切な」
そこでユルの表情が緩みかけたが……
「“兄”、だよ」
告げた瞬間、少し空気が変わった。
笑ってみせたが、ユルは笑い返してくれなかった。
「……そうか」
ようやく放たれたユルの声音は平坦で、感情を伺えない。
「う、うん」
何か、答えを間違えただろうか。しかし、ククルにとって“兄”とは最上の称号のようなものだった。
ククルをいつでも助けてくれて、愛情を注いでくれたティン。彼に負けず劣らず、大切だという意味もこめたのだが……。
「そろそろ、帰るか」
「そうだね」
促され、ククルは頷く。すぐにユルは、背を向けてしゃがんだので有難くその背に乗った。
ユルが歩き出してすぐ、ククルは急激な眠気を覚えてしまった。
(背が温かくて、安心する……)
疲労のせいか、意識はすぐに途切れた。
急に背負っていたククルの体が重みを増したような気がして、ユルは足を止める。
首を後ろに向ける。ククルは、気持ちよさそうにすやすや眠っていた。
(手のかかる“妹”だな――)
苦笑して、ユルは彼女の体を背負い直す。
妹――。その単語を、反芻する。
自分は、どんな答えを望んでいたのだろう。ククルが、ユルを兄だと思っている――と言うことは明白だったのに。
ユルは星空を仰いだ。
「兄、か」
そう、兄だ。自分はククルの兄だ。もう戸籍上は兄でなくても。もう二人で発揮する力は使えなくとも、兄妹神の片割れだ。彼女が兄と認めた男児。たった一人の家族。
ならば、兄にふさわしい振舞いをせねば。
ユルは決意をこめて、目を伏せた。
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