第三話 祝祭 3


 技術的な問題はもちろん、全体的に筋力がないのも原因だろうと考え、ククルは寝る前に腹筋をすることにした。


「う……うう」


 五回で既に疲れてしまう。


「む、無理せず一日五回でいいか」


 効果があるのかは、わからなかったが……。


(今日は勉強できなかったなあ)


 宿題はかろうじて、数学の宿題を一ページできた。自主勉強の方は、まだまだだ。ククルは現代の学校に通っていなかったので、基礎的な知識がまだ身に付いていない。だから、空いた時間に高良家の息子――今は首都のナハで下宿中なので留守だ――の教科書を借りて復習しているのだが。いまいちはかどらない。


 夏休みになればのんびりできると思ったが、舞の練習が始まるとむしろ忙しいかもしれない。


(でも、頑張らなくちゃね)


 数百年も時を越えて、どうしていいかわからなかった。そんなククルとユルが、ちゃんと生活できるようにしてくれた。島人たちには、感謝してもしきれない。


 できるだけ、期待に応えたい。


 強く願い、ククルは布団に入った。




 翌日から、ククルは舞の先生に厳しく指導してくれるよう頼んだ。


 彼女もこのままではまずいと思ったのか、きっちり指摘してくれるようになった。


 夕食後、家の一室で行う練習も続けた。ユルは辛抱強く付き合ってくれた。


 そして、祭りの三日前――


「大分、形になって来たな」


 ユルの一言に、ククルは決めの構えを解いて微笑んだ。


「ほんと?」


「ああ」


 ユルは素直にものを言うので、こう言ってくれるということは、大分見られるものになったということだろう。


(寝る前の腹筋も効果あったかも……へへ)


 あちこち筋肉痛だが、構ってはいられない。


「あと一回ぐらい通しでやろうかな。手拭い取って来るから、少し待っててくれる?」


「ああ」


 ククルはユルを残して、部屋を出た。階段をゆっくり上がり、自室に入る。


 これこれ、と花柄のお気に入りの手拭を引き出しから取り出す。


 空調が利いているとはいえ、踊っていると汗をかく。首筋を拭いながら、ククルは階段を降りたが――


 ずるっ。


「ひゃあっ!」


 足を踏み外し、階段を転げ落ちてしまった。大きな音を立てて、床に転がる。


「いったあ……」


「おい、大丈夫か!」


 物音を聞きつけたのか、ユルが走って来た。


「う、うん」


 立ち上がりかけたところで、ククルは青ざめた。


「どうした」


「……足、痛い」


 左足に、激痛が走っていた。


 思わず、涙が零れる。痛みのせいではない。


(これじゃ、踊れない……!)




 高良夫人に応急措置として湿布をしてもらったが、痛みはちっともましにならなかった。足首が、既にかなり腫れている。


「うーん。これは病院行った方がいいねえ。骨折してたら大変だし、大きい病院に行った方がいい」


 高良のおじさんも心配そうだ。


信覚島しがきじままで行けるかい?」


「オレが運んでいきます。港から病院までは、タクシーで行けばいい。この家から港は大したことない距離だし」


「そうだね。ユルくん、よろしくね」


 ユルと高良の会話を聞きながら、ククルはぼんやりと腫れた足を見下ろす。


(どうしよう――)


 任された演目を、こなすこともできなくなるとは。


「とりあえず今日は安静にしておきなさい。明日、私からみんなに伝えるから」


「はい……」


 ククルは、呆然として答えることしかできなかった。


「その足じゃ、二階上がるの辛いでしょ。一階に布団敷くから、そこで寝てね」


 高良夫人の言に、「ありがとうございます」と頭を下げた。




 布団の上に座って、ククルはじっと考え込んでいた。


(お祭り、台無しだ……。演目が一個なしになるってことは、どうなるんだろ――)


 泣きそうになって、唇をかみしめたところで襖の向こうから声がした。


「オレだ。入るぞ」


「……うん?」


 中途半端な返事をしたところで、ユルが入って来た。


 布団の傍に座って、ユルはククルの顔を覗き込む。


「おじさんと話して来た。お前のやる予定だった女踊りも、オレがやることにした」


「え!? で、でも」


「オレはお前の見てたから、振りも覚えた。あと二日あるし、何とかなるはずだ」


「そう、だけど」


 たしかにユルは見本でやってくれた動きを思い返す限り、ククルよりもずっと上手い。しかし……


「ユルは二才ニセー踊りもやらないといけないでしょ? 大丈夫なの?」


「女踊りは一日目、二才踊りは二日目だ。問題ないだろ」


「――そっか」


「ああ。……兄妹神の片方がどっちもやるなら、島人は満足してくれるさ」


 ユルの言葉で、とうとう我慢しきれない涙の滴が落ちた。


「……ごめんね」


 島人の期待に応えたい。その思いを、ユルもわかってくれていたのだ。


「謝るなよ。来年はちゃんと踊れるよう、練習しとけよな」


「うん……もっと、頑張る」


 ぼろぼろ零れる涙を手の甲で拭っていると、呆れたようにユルが傍らに置いていた手拭を取り、渡してくれた。


「でもさ、ユル。あの衣装着るの?」


 ククルの指摘に、ユルは嫌なことを思い出したかのように顔をしかめた。


 もちろん、女踊りは女性を表す踊りなので――華やかな女性の琉装を着なければならない。


「……ま、しゃあねえだろ」


 嫌そうだが、ユルはもう覚悟を決めているらしい。


「じゃあ、オレはもう行くから。明日は早めに病院行くぞ」


「うん。おやすみ」


「おやすみ」


 ユルの背を見送り、ククルはすっかり濡れてしまった手拭いを畳んだ。




 翌朝、朝食を食べた後ククルとユルは信覚島に向かうことにした。


 ククルは玄関まで、左足を庇いながら歩いた。


「港まで、背負ってやるよ」


「えっ」


 戸惑うククルを意にも介さず、靴をはいてからユルはしゃがみこむ。ククルも靴を履いてから。ユルの背に乗っかる。


 ユルがククルの足を掴んで立ち上がり、ぐん、と視界が高くなる。


 ククルは手を伸ばして、戸をがらがらと開けた。朝から強い日差しが、二人を包む。


 ざくざくと砂を踏んで、ユルが歩く。心地よい振動に目を閉じる。


(昔は、兄様によくおんぶしてもらったなあ……)


 ティンの記憶が、蘇る。ククルは甘えん坊で、ティンに背負われるのが好きだった。高くなった視界も、兄の温かな背中も大好きで。さすがに長じてからはあまり頼まなくなってしまったが。


 ティンのことを思い出した、と言ったらユルは怒るだろうか。


「ごめんね、ユル。重くない?」


「重い」


 はっきり返されて、ククルは衝撃を受けた。


「お、降りる!」


「冗談だって」


「ほんと?」


「昔と違って体格差ついたからな。まあ、そこまででもない」


 軽い、とは言わないところがユルらしい。彼はお世辞を言わない性質だ。


「……そっか」


 数百年前の琉球で旅をしている時、ユルに運ばれたことがある。あの時は今ほど身長差がなかったので、重いと言われたのだろうか……。


(ユルは随分、大きくなったもんね)


 こうして、しがみついている背中も――いつか見た華奢な背中とは違う。男性は女性より遅れて体が大きくなる、と聞いたことがある。ユルは典型的な成長の仕方をしたのだろう。


「骨、折れてないといいな。多分大丈夫だと思うけど」


 そう言われて、ククルは頷く。


「うん……そうだね」


 恨めしく、ククルは自分の足を見た。せっかく練習したのに、台無しだ。


 ユルがやってくれるなら、舞台は大丈夫だと思うけれども。


(何だろ……)


 見上げると、真っ青な空に灰色の雲がぽっかりと浮かんでいた。早い風に流されて行ってしまうその雲に、なんとなくククルは不吉な予感を覚えた。

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