第二話 旅人 3


 夏休み前日。薫は帰り際に、巨大な鞄を渡して来た。


「こ、これ……貸すって約束してた漫画。重いから気を付けてね」


 本屋に行った時に、夏休みで時間があるから漫画を多めに貸してもらえないか、と頼んだのだが――まさかこんなにたくさん持って来てくれるとは思わなかったククルは、仰天しつつも感動した。


「うわあ。持って来るの重かったでしょ。ごめんね」


「ううん。約束だからね。頑張って読んでね!」


「うん!」


 教室を出て行く薫に手を振ってから、ククルはその大きな鞄を持った。


「ぐ、重い」


 よろよろしながら、ククルも教室を出た。ユルは職員室に用事があるらしく、先に教室を出て行ってしまった。下駄箱で待ち合わせることになっている。


(げ、下駄箱まで持って行けるかな……。比嘉さん力持ち……)


 ふらふらと、ククルは何度も休憩を挟みつつどうにか下駄箱に辿り着いた。ユルは既にそこにいた。


「……何だそれ」


 漫画の入った鞄を目に留め、眉をひそめる。


「ま、まんが。夏休みだからたくさん読みたいって言ったら、これだけ貸してくれたの……」


 荒い呼吸の合間に答えると、ユルは盛大なため息をついた。


「しゃあねえなあ。持ってやるよ」


「ありがとう!」


 ククルは震える腕で鞄を渡した。


「……重い」


 ユルでも重いらしく、口元が引きつっていた。


「半分こして持つ?」


「却下。行くぞ」


 あっさりとククルの提案を一蹴して、ユルは背を向けた。


 靴を履き替え、校舎を出る。しばらく歩き、校門を出たところで、ユルが口を開く。


「お前、宿題もあるのにこんなに読めるのかよ」


「……うっ」


 ククルは思わず言葉を詰まらせた。


「が、頑張る。まんがも読むし、勉強も宿題も頑張るよ」


 ふうん、とユルは気のない返事をする。


「あっちの島に帰ったら、しばらくゆっくりだね」


 学校があるとないでは大違いだ。それに、信覚島はこの諸島の中では人口が多いので、少し忙しない印象だった。


「そうだな。盆と祭りは忙しそうだが……」


「特にお祭りは、私たちが中心になってやるって言ってたもんね。緊張するなあ。今度は去年のように、ぼーっとしてるだけじゃいけないだろうし」


 ククルとユルは、去年の晩夏に帰って来た。祭りにも出席したが、綺麗な琉装をまとって座っていただけだった。その時はまだ、現代の琉球語があまりわからなかったのだ。


 頼まれるがままに、衣装をまとって座していた時、不安でククルは目を泳がせていた。でも、隣のユルがあまりにも堂々としているので、ククルは首を傾げ尋ねたのだった。




 ――ユル、不安じゃないの?


 ――別に。何とかなるだろ。




 その気楽とも言える返事に、どうしてかひどく安心してしまったのだ。


「何だよ」


 ククルの視線に気付いたのか、ユルがうろんげに見下ろして来る。


「……ううん、何でもない」


 そこで、ククルはユルと並んで歩いていることに気付く。鞄が重いから、ユルがいつものように早く歩いていないだけなのだろうが……。


「ぼさっとしてんな。さっさと行くぞ。このままじゃオレの肩が外れる。何だよこの重さ」


「ええっ。私、半分持つよ」


「いらねえよ!」


 そんなやり取りをする二人を見て、通りすがりのおじいさんがにこにこ笑っていた。




 その日の夜に荷物をまとめ、翌日の昼過ぎにククルとユルは港に向かった。これから、連絡船で神の島に向かう。


 漫画本はさすがに全部持って行けないと判断し、半分にして鞄に詰めた。これでも重い。買い物をしたい時もあるだろうから、夏休み中にも信覚島には戻って来るはずだ。その時に残り半分を取りに来ようと考えていた。


 ククルは荷物を抱えてよろよろと、玄関を出た。


 ユルが見かねたのか、漫画の入った鞄をククルから取り上げる。


「あ、別にいいよ。私、それなら持てるからさ」


「うるせえ。隣でよろよろされてたら、オレが恥ずかしいんだよ」


「……よくわからない理屈だけど、ありがとね」


 礼を言うと、ユルは返事もせずにさっさと歩きだしてしまった。




 連絡船に乗って、神の島に辿り着く。高良家に行くと、すぐに歓迎してくれた。しばらくゆっくりと過ごした後、夕食に呼ばれる。


 豪華な刺身料理に舌鼓を打ち、すっかり満腹になった。


 そうして、あっという間に寝る時間がやって来たが……


「眠れない」


 ククルはぱっちり目を開けた。


 窓の外を見やる。今日は月の明るい夜だった。


(散歩でもしようかな)


 ククルは布団から抜け出した。




 草履を履いて、そっと家から出る。しばらく歩くと、すぐに浜辺が見えた。


「わあ……」


 月に照らされた、夜の海。


 こうして見ると、数百年前と何も変わらない。時を超えたことなど、なかったのではないかと――希望にも似たことを考えてしまう。


(今日は、ニライカナイが近いんだね)


 たまに、こういう夜がある。ニライカナイが現世に近付き、胸のざわつく夜が。この感覚も以前と同じだった。


 強い海風に、寝間着代わりの浴衣が煽られる。ククルはそのまま目を閉じ、ニライカナイを想った。


(私が渡った世界。神の世界。異界――)


 妙な高揚感に陶然とし始めた時、ふと誰かの気配を感じて目を開いた。


 白い水着姿の女性が、こちらに向かって歩いて来ていた。


「こんばんは」


 彼女の声は、夜によく響いた。


「……こんばんは」


 ククルは思わず、彼女をまじまじと見てしまった。


 彼女の体は濡れていた。こんな夜中に、泳いでいたのだろうか。


 ククルの不審な視線に気付いたのか、彼女は口を開いた。


「ちょっと、そこで泳いでいたの。夜の海もいいものね」


 大和語だったので、彼女が大和人なのだと悟る。観光客だろう。


「夜の海は、止めた方がいいですよ」


「……まあ、危険だものね。色々と」


「そう。それに、魔物マジムンが出ます」


「マジムン?」


 彼女は不思議そうに、反復した。


「ええと……大和語だと、妖怪……かな。そう。妖怪が出るので――」


「あら」


 彼女は笑った。少し嘲りの潜んだ笑みだった。


(この人は、魔物信じてない人かな)


「別に、危険でもいいと思ったのよ。危険を承知で泳いだのだから」


「どうして?」


「死ぬ、つもりだったの」


 返答に、ククルは驚き立ちすくんだ。


「……どうして」


「まあ、色々疲れちゃって。一人旅でここに来たんだけどね。死に場所を探してたっていうのかしら。でも、なかなか思い切れなくて。夜の海を泳いだはいいけど、何も起こらなかったし……何もできなかった」


 彼女はため息をつき、黒い髪をかき上げた。本人の言う通り、疲れの滲んだような生気の薄い立ち姿だった。


「あの――」


 ククルは急いで、言い募った。


「この島の民宿に泊まってるんですよね?」


「え? ええ」


「よかったら明日、お昼ごはんか夕ご飯食べに来てください。私が厄介になっているお家なんですけど、とても料理がおいしくて……私が作るんじゃないんですが……頼んで、作ってもらいますから」


「……」


「あのね、琉球料理まだ全部食べてないでしょ? まだ食べてないの、教えてください」


 そこまで言ったところで、女性は声を立てて笑った。


「……ありがとうね。安易に死ぬなって言われても、私はもう心が動かない……。でも今、あなたの言う料理食べたいな、って少し思ってしまった」


「じゃあ」


「ええ。お昼に伺うわ」


「よかった! 私の住んでいる家は――」


 高良家の場所を簡単に教えると、女性は頷いて手を振った。


「それじゃあ、また明日」


「また明日!」


 彼女を見送り、ククルはホッと息をつく。


 とりあえず、また明日という約束を取り付けることができた――。


「おい」


 背後から声をかけられて、ククルはびくっとしてしまう。


 振り向いた先には、ユルが立っていた。ユルもククル同様、寝間着の浴衣姿だった。


「……ユル、どうして」


「喉が渇いて、何か飲もうと部屋を出たんだ。そしたらお前の部屋の戸が、開いてた」


「そ、そう」


「そう、じゃねえだろ。こんな夜中に一人で歩くなっつの!」


 いきなり怒鳴られて、ククルは跳び上がりそうになってしまった。


「どうして?」


「馬鹿。魔物が出たらどうするんだよ。お前は対抗手段がないだろ」


 それもそうだ、とククルは納得する。


 ククルの短刀――命薬には癒しの力しかないようだし、魔物に襲われてもククルはどうにもできない。


「それに、人間だって危険だろ」


「人間? どうして」


「夏休みだから、観光客増えてるだろ。羽目を外した観光客に何かされたら、どうするんだよ」


 ユルは厳しい顔をしているのに、ククルは思わず笑ってしまった。


「何で笑ってんだよ」


「……ユルって、心配性だなって思って」


「ふざけんな。お前が呑気なだけだ。――ほら、帰るぞ」


「うん」


 ククルは一足先に歩き始めたユルを追って、歩を進めた。


(あれ……)


 魔物の気配に背筋が寒くなる。振り向くが、何もいない。少なくとも、魔物は近くにはいないようだった。夜の海で、目覚めたのだろうか。


「おい、何やってんだよ」


 ユルに呼びかけられ、ククルは首の向きを元通りにして歩き出した。


「ごめんごめん」


 なんだか不安になって、ユルの手を握る。ユルは顔をしかめながらも、手を解かないでいてくれた。

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