第一話 覚醒 7


 学校から出て、ふらふらと町を歩く。


(兄様……どこ)


 あてどなく歩いていると、見覚えのある背中が目に入った。今では珍しい、琉装姿。ククルの時代の島人がよく着ていた、青い着流しだ。


「兄様!」


 叫ぶも、彼はククルを振り返ることもなく歩いて行く。


 ククルは彼を追い、走った。何度も見失いながら、兄らしき影を追って駆ける。


 いつの間にか、日がとっぷりと暮れていた。


 ハッと気付くと、ククルは林の中にいた。


「……ここ、は」


 むせ返るような、アカバナの花の香。薄暗い林の中で、赤い花が怪しく浮き上がる。


 ククルが追いかけていた人は、ようやくゆっくりと振り返った。


 やはり――その顔は、ティンのものだった。


「兄様……転生したの? 私のこと、覚えてる?」


 問いかけても、ティンは曖昧な笑みを浮かべるのみ。


 何かが変だ、とククルはようやく気付いた。


「……兄、様?」


 にい、と笑うティン。まるで獲物を前にした、肉食獣のように。ティンはこんな笑い方はしなかった。こういう笑い方をするのは……


魔物マジムン……」


 ククルは一歩下がった。疲労と恐怖で、足が震える。


 今、ククルには神の力がない。それに、力が残っていたとしてもユルがいなければ、魔物を斬ることはできなかった。


 ククルは魔物の、恰好の獲物だろう。


(魅入られたんだ――)


 弱った心に付け込まれ、こうして誘き寄せられた。


 逃げないと、と思うのに足が動かない。


 ティンの姿を取った魔物が、ゆっくりとククルに近付く。覚悟してぎゅっと目をつむった時、声が響いた。


「ククル!」


 振り向くと、ユルが後ろから走って来たところだった。


「……ちっ。やっぱ、魔物かよ!」


 ユルはぎり、と歯を食いしばりククルの腕を引いた。


「今のオレたちに対抗手段はない。逃げるぞ!」


「あ、足が動かなくて……」


「何だと?」


 言い合いしている二人を余裕の笑顔で眺めながら、魔物が飛びかかって来た。


 ユルにどんっと突き飛ばされ、ククルは転がる。魔物から伸びた手は、ユルの腹に埋められていた。


「ユル!」


 駆け寄ろうとして、また足が動かないことに気付く。


 ユルは口から血を零し、咳き込んでいた。力なく、後ろに倒れ込む。


 泣きそうになる。魔物に幻惑され、罠にかかったのは自分なのに。どうして、ユルが。


 強く、思った。願った。祈った。彼を助けたいと。


 すると――浮かんで来る言葉があり、喉からほとばしった。


「ユル! 首飾りの名前を呼んで! あなたは知っているはず!」


 それを聞いて、ユルはぼうっとしたように、魔物を仰ぎながら胸元に手を当てた。


 魔物はいつの間にか、ティンの姿ではなくなっていた。顔は赤い花。体は木のようで。ユルの血に濡れた腕は、枝へと代わっていた。


 あれが本当の姿だ。ユルには初めからあの姿で見えていたのかもしれない。彼は、あの魔物に対してティンの名前を呼ばなかった。


 魔物は慌てることもなく、ユルに花の顔を近づける。


 その時、ユルが叫んだ。


天河ティンガーラ!」


 銀色の光が走り、ユルの手に刀が顕現する。


 ユルが刀を一閃させると、魔物が悲鳴を上げて後ろに下がった。その隙をついてユルは立ち上がり、刀を構える。


 慣れた所作だった。彼が王府で剣術を叩き込まれた過去が、如実にわかるような無駄のない動き。


 魔物が飛びかかる。ユルは慌てることなく、刀を振るった。


 悲鳴と共に魔物は真っ二つに斬られ、地面にぼたぼたと落ちた。


 ユルは膝をつき、血を吐いた。


「ユル!」


 ようやくククルは動けるようになり、彼に慌てて駆け寄った。


「ごめん、ごめんね。ど、どうしよう。治せるかな」


 泣きながらユルの腹に手を当てる。


「……無理だろ。もう兄妹神の力はないんだから……。病院に電話を……」


 そこまで言ったところで、ユルの体が傾ぐ。彼を受け止めながら、その重みに泣きそうになる。


(ユルが名前を知っていたなら、私も名前を知っているはず。あの、海のごとき宝石の名を)


 そしてそれはきっと――


 ククルは静かに、呼んだ。


命薬ヌチグスイ


 青い光と共に、ククルの手に小刀が現れる。その刀身は青白い。


 ククルは小刀を手にして、ユルの傷口にそれを刺した。


 きいん、と音がして青い光が溢れる。ククルは何かに引っ張られるような感覚を堪えながら、手を放さなかった。


 どくどく、と打つのは自分の鼓動の音か。それともユルのものか。


 傾いだ彼の胸に耳を当てて、目を閉じる。そうして鼓動に耳を傾けていると、まるで彼と一つになったようだった。血がめぐるように、海の流れがめぐるように。


 どのくらい、そうしていただろう。青い光が治まり、ククルは小刀を彼の腹から抜く。


 ユルの顔色は、先ほどよりもずっとよくなっていた。血に濡れ、破れたシャツの裂け目から手を差し入れる。滑らかな肌にはもう、傷はなかった。


(治せたんだ)


 安心と共に、どっと脱力感が襲う。ひどく、疲れていた。小刀を使った反動なのだろうか。


 兄妹神の力は、なくなってしまったと思っていた。しかし、違ったようだ。もっとも、前とは全く違った形となったが。


(ユルの天河が魔を斬る力を持って、私の命薬が癒しの力を持っている……。力が分離したってこと?)


 考えながら、ククルは眠気と戦った。


 こんなにも魔物の気配が近い場所で眠れば、また襲われるだろう。移動しなくてはならない。といっても、非力なククルにユルは運べない。


「ユル、起きて」


 彼を起こすしかなかった。


 しばらく揺さぶって、ようやくユルは目を開いた。


「ここから移動しよう。立てる?」


 まだ意識が朦朧としているらしいユルに問うと、彼はククルの手を借りてゆっくり立ち上がった。


 ククルは足元に落ちていた、自分とユルの鞄に気付く。どうやら、ユルは学校からククルの鞄も持って帰って来てくれたらしい。


 ククルは荷物を右手で持って、もう左手でユルの手を引き、歩き出した。




 もう日が暮れて暗かったので、道行く人にユルの血に気付かれることもなく二人は無事に家に帰った。


「だめだ……寝て来る。夕食いらないって言っといてくれ」


 ユルはそう言い残して、ふらふらと階段を上がって行く。傷は癒えたとはいえ、かなり失血していたせいでふらつくのだろう。


「大丈夫? 病院行く?」


 ククルは彼の背に問いかけたが「いい。寝る」と返され、引き下がった。


 その後、ククルは食事と入浴を終えてからユルの部屋に行った。部屋の扉に、鍵はかかっていなかった。


「ユル……」


 昏い部屋の中、寝息が聞こえる。


 部屋に入って、ベッドに近付く。ユルがぐったりした様子で、眠っていた。


 血の付いたシャツを着替える余裕もなかったのか、上半身は裸で布団もろくにかぶっていない。


「風邪ひくよ」


 声をかけ、布団をかぶせてやる。


 血に濡れたシャツは、床に落ちていた。それを拾い、ククルは思案する。


 血に汚れ、大きく破れているので、もう着られないだろう。伊波一家に心配をかけてもいけないだろうから、これはこっそり捨てておこうと決める。ユルもきっと、そうしろと言うはずだ。


 シャツを抱えたままククルは床に座って、ユルの様子を伺った。


(ちゃんと、話さないと)


 さっきの一件、話さなければならないことがたくさんあった。しかし帰り道はどちらも余裕がなくて、何も話せないままだった。


「ごめんね……」


 聞こえていないとわかっていても、謝ってしまった。


(ユルは、助けに来てくれたのにね)


 自分はユルではなく、もういない兄――ティンを頼ったのだ。その結果が、あれだ。


 ほろりと、自責で涙が零れた。




 ククルはハッとして、目を開ける。いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。


 ユルのベッドに、うつぶせになって寝ていたようで腕が痛かった。


 ふと、ベッドにユルがいないことに気付く。


(あれ……?)


 戸惑い、立ち上がったところで背後の扉が開いた。


 ユルが、入って来た。髪は濡れ、寝間着用の浴衣に身を包んでいる。風呂に入って来たようだ。


「ユル! 大丈夫?」


「……ああ。なんとかな」


 ユルはあくびをかみ殺し、電気をつける。その後、ククルの横を通り過ぎ、ベッドに腰かけた。


「あの……ごめんね、ユル」


「……」


 謝ると、彼はじっと底知れない闇色の目でククルを見た。


「ちょっと待て。喉乾いたから、何か取って来る」


 そう言って立ち上がろうとしたユルを、ククルは押しとどめた。


「私が行くから。じっとしてて」


「……わかった」


 ユルがあっさり従ってくれたので、ククルは急いで部屋を出た。

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