第二部

八重山編

第一話 覚醒

 

 からりと晴れた空の下、ククルはゆっくり歩いていた。


(暑い)


 いつまで経っても、この洋服とやらに慣れない。着流しの琉装が懐かしかった。


 ククルを包むのは、白いシャツに黒い襞スカート。一般的な学校の制服の、夏仕様だった。


 今日、ククルは寝坊してしまったので一時間目は遅刻確定だ。ユルがしつこく起こしてくれたのは覚えているのだが、どうにも怠くて起きられなかった。


 暑さに辟易して、軒先にできた影に隠れて一息つく。


 はあ、とため息をついて、ククルは時代が変わっても変わらない様の空を仰いだ。




 ククルとユルがニライカナイから帰って来てすぐ、神女ノロとして彼らを守り祀っていた老女に発見された。老女はすぐに彼らを家に案内し、彼女の家族に紹介してくれた。


 彼らはカジの子孫だった。


 カジはきちんと、子孫に伝えてくれていたらしい。いつか目覚めるから、彼らがちゃんと人間として生きていけるように手助けをしてほしいと。そして、金や宝石などの財産をククルとユルのために残してくれていた。


 ククルとユルはともかく新しい時代に馴染むため、今の時代の言葉を頭に叩き込んだ。琉球の言葉は変わったとはいえ昔の言葉を喋っていたので、そこまで苦労はなかった。しかし、今は大和語も喋れないといけないのだという。どうやら以前、琉球が大和の領地になった時に一旦琉球語が廃止され、大和語を使うように奨励されたらしい。


 世界大戦とその後の混乱を経て、琉球は独立国となった。しかし、名残として教育の場では大和語が使われている。琉球語で行われる授業もあるものの、大和語で行われる授業が多いため、二人は大和語をどうしても覚えなくてはならなかった。


 二人は十六歳で、学校に通う年だったからだ。


 ユルは昔、大和語も習って流暢に喋れて読み書きもできたらしいから、割合あっさりと覚えていった。問題は、ククルだ。


 なんとかカジの子孫――高良たから家の采配のおかげで、高校に通える算段になったものの、ククルには荷が重かった。どうにか大和語の読み書き、聞き取りができるようになったとはいえ……それで授業を受けるというのは、思ったよりも大変だった。


 それに、ククルの故郷の島――高良家もそこにある――には高校がなかったため、信覚島しがきじまに下宿して通わなければならなかった。高良家の親戚にあたる伊波いは家も二人の事情をよくわかった上で、協力してくれていた。


 母語に似ているとはいえ新しい言語を覚え、また人の多い環境に身を置くというのは、相当な負荷がかかるものだ。


 ククルがぼんやりしていると、前から誰かがやって来た。


「おい、そこで何やってるんだ」


「ユル」


 ユルもまた、制服に身を包んでいた。白い半袖シャツに黒いズボン。愛想のない制服だが、彼にはよく似合っていた。


 髪を短くしていたこともあったが、今ではまた伸びて後ろでくくっている。特に校則違反でもないので、慣れたこの髪型でやっていくことにしたようだ。


 ユルは大分背が伸び、以前より声も低くなって、青年に近付いていた。彼の内の危うい脆さも息をひそめたように思うが、言動はあまり変わっていなかった。つまり、相変わらず口が悪くて態度が大きい。文句を言いつつもククルを心配してくれる態度も、相変わらずだった。こうやって迎えに来たのも、心配してのことだろう。


「さっき家に電話したら、もう家を出たっておじさんが言ってたから途中まで迎えに来た」


 仏頂面で説明して、ユルはククルをじろじろ見た。


「お前、顔色悪いぞ」


「……暑い。夏でも、こんなに暑かったっけ?」


「オレたちの時代より暑くなったんだろ」


 ククルがふらつくと、ユルの顔色が変わった。


「お、おい!」


「……もう、無理」


 ククルはもう、立っていられなかった。視界が明滅して、体が傾いだ。




 目覚めると、白い天井が目に入った。


「……ここ、どこ」


「保健室よ。和田津わだつさん、大丈夫?」


 答えが返って来たことに驚いて、ククルは身を起こした。


 顔を横に向けると、保健室の先生が笑いかけて来た。


「気分は、ましになった?」


「あ、はい」


「ならよかった。もう少し寝ていなさい。三時間目には間に合うよう、起こしてあげる。雨見くんも迎えに来てくれると思うわ」


 先生は机に向き直って、何やら書き物をしながらククルに説明した。


(あまみ……ああ、ユルのことか)


 帰って来たククルとユルには、高良家の人が戸籍を用意してくれた。ククルは和田津わだつククルとなり、ユルは雨見あまみユルとなった。カジが考えて、残してくれた苗字だという。


 ククルの時代では、庶民は苗字を持っていなかったのだが、先見の明があったカジは「庶民が苗字を持つ日が来るかもしれない」と思って残してくれたそうだ。


 倒れた後に保健室のベッドに寝かされているということは、ユルが運んでくれたのだろう。こんな暑い日に、人ひとりを運ぶのは大変だったろうとククルは申し訳なく思った。


 ぼんやりしていると、「おい」と声がかかった。


 いつの間にか、ユルが傍に立っていた。代わりのように、保健室の先生は姿を消している。どうやら、座ったまま少し眠ってしまっていたらしい。


「三時間目、出られるか?」


「うん」


 短く答えて、ククルはベッドから降りて上履きをはいた。


「ユル、ありがとう。運んでくれたんだね」


「ああ」


 ユルは、にこりともせずに頷いた。


 ユルと一緒に教室に帰る。クラスの数は一つしかないので、当然ククルとユルは同じクラスだった。


 ちょうど教師が入って来たところだったので、ククルは急ぎ足で着席した。




 家に帰ってから、ククルは宿題に取り組んでいた。


 大の苦手な数学の宿題に、苦しむ。


「……ううん、うーん」


 隣のユルはとっくに終わったらしく、暇そうにシャーペンをくるくるさせている。


「…………ユル、教えて」


 観念して頼むと、ユルは頷いてククルのノートを覗き込んだ。


 ユルは算術もやっていたらしく、数学などの理系科目も案外早く身に着けていった。とはいえユルが習った算術と今の数学は大分違うはずだから、元々のみ込みが早いのだろう。


(昔の大和語も、大陸の言葉もできるんだもんなあ。ずるいなあ)


 もっとも、それは昔のユルが必死に身に付けたおかげだろう。王子と同じ教育を受け、同じ程度こなせるようになるまで、血の吐くような努力をしたのだと考えると、切なくなってしまう。


 ユルの説明を聞きながら公式を睨んでいると、こんこん、とノックの音が響いた。


「ごはん、できましたよー」


 はい、と応答しながらククルとユルは同時に立ち上がった。




 卓を囲むのは、ククルとユルと伊波夫婦、それに夫の方の母親である老婆だった。


 食事が始まると同時に、伊波夫人がテレビをつける。ニュースキャスターが「こんばんは」と挨拶したので、ククルも「こんばんは」と挨拶をした。


 その様を見て、ユルがため息をつく。


「だーかーら、テレビに喋るなって」


「だって、あの人こっちに挨拶したもの」


「オレたちがいるって認識して言ってるんじゃねえよ。視聴者全体に言ってるだけ」


「うん?」


 ククルは未だ、テレビの概念が理解できなかった。だからいつも、挨拶を返してしまうのだ。


 なぜユルは理解できるのか、ククルは不思議だった。


 テレビの画面が切り替わり、アナウンサーが三線サンシンの名人を紹介する。


「あー、三線だ。そういえばユルも三線弾けたっけね。久々に聴かせてよ」


「……お前に聴かせたこと、あったっけ?」


「……」


 正確に言えば、ユルが弾いていたのを勝手に聴いていただけ――である。


「おや、ユルくんは三線が弾けるのかい。うちにあるから、いつでも弾いてくれ」


 そこで伊波が、食いついた。


「いや……随分、弾いてないし」


 期待されるのが嫌なのか、ユルは眉をひそめていた。 


「いつでも練習していいんだよ。渡しておこうか」


 返事も聞かずに、伊波は三線を取りに行ってしまった。




 夕食後、ユルは伊波に現代の三線の弾き方を習っていた。昔の弾き方と少しは変わっているのだろう。


 一軒家で隣家は離れているため、夜でも練習して構わないようだ。


 練習している音を聞きながら、ククルは自室で残った宿題を片付けていた。


(やっぱり、ユルの三線の音ってどこか暗いなあ)


 どうしてあんな音が出るのか、不思議だった。陰を帯びた、淋しそうな音色。それは、彼の抱いていた闇が深すぎたからだろうか。


 ククルは、急激な眠気を覚えて教科書を閉じ、シャーペンを置いた。ベッドに潜り込み、少しだけと目を閉じた。




 ふと目を開けると、電気が消えていた。誰かが消してくれたらしい。起き上がり、枕元の置時計の黄緑色に光る数字を見やる。もう十二時だった。


(あちゃあ……大分、眠っていたみたい)


 お風呂にも入っていないのに、とククルはベッドから降りた。今入れば音で家人を起こしてしまうだろうから、朝にシャワーを浴びようと決心する。


(とりあえず、寝間着に着替えないと)


 そこでククルは、急激な淋しさに襲われた。


(トゥチ姉様――カジ兄様)


 もうとっくに死んでしまった、二人。最後までククルとユルを心配して、二人が戻って来ても心配ないように手配してくれた。


 思い出すたび、感謝の想いが溢れる。それと同時に、言いようのない哀しさが襲う。


 もう、会えない。


 二人が死んでしまったのだという事実を、未だ受け止め切れていなかった。


 一人でいることに耐え切れなくなって、ククルはよろよろと部屋を出た。廊下も暗く、青い闇の底に沈んでいる。


(ユル、起きてるかな)


 ユルの部屋の扉を叩くと、意外なことにすぐに開いた。


「なんだよ」


 起きていたらしく、部屋の電気はついていた。


「まだ、起きてたんだ。何してたの?」


「……別に」


 素っ気なく答えて、ユルは首を傾げる。


「お前、起きたのか。で、何しに来たんだ?」


「……ちょっと、話したくて」


「話?」


「うん。あのね、カジ兄様とトゥチ姉様は死んじゃったんだって思ったら、哀しくなって」


「……」


 ユルは眉をひそめ、ため息をついた。


「わかった。お前、そのまま外に出られるか?」


「ん? うん」


「じゃあ、行こう」


 ユルは一旦部屋に戻り、三線を手にして廊下に出た。


「あれ? どうして」


「聴かせてやるよ。お前、さっき寝てたからな」


 ユルがどんどん先に行ってしまうものだから、ククルは慌てて彼の背中を追った。


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