第十一話 姉妹

 その夜、ククルはふと目を覚ました。窓から見える闇はまだ深く、夜明けには遠いようだ。


「ふあーあ」


 あくびをすると、思ったより大きな声が出てしまった。


 傍らで眠るトゥチが起きてしまったのではないかと懸念しながら、そっと彼女の顔を覗き込む。――杞憂だったようで、トゥチは静かに眠っていた。


 ホッとして、ククルはこっそり布団から抜け出る。


(何でだろう……胸が、ざわつく)


 まるで、寄せては返す波のように心が乱されている。ククルは予感に従い、そっと宿から出た。




 外に出た瞬間、見覚えのある後ろ姿に向かってククルは叫んだ。


「ユル!」


 ゆっくりと――その人物は、振り返る。明るい月夜だというのに、なんと影が薄いのか。


(ユル本人じゃ、ない)


 影の薄さと、直観でわかってしまった。


「……マブイ、なの?」


 ユルは、何も言わなかった。


(マブイが、抜けたんだ)


 物理的な衝撃などで、マブイが抜け出ることがある。それだとマブイ込めをしなくてはならないのだが……。


 たまに抜け出るほどだから、少しの間なら抜けていても体調を崩したりするだけで大事にはならないが、一定期間以上マブイが戻らないと死に至るという。


(聞得大君が気付かないはず、ない)


 聞得大君は最高の神女ノロなのだ。それなのに、わざと捨て置いているとは、一体どういうことだろう。


「来て。外は夜だと冷えるでしょう。ほら」


 マブイが寒さを覚えるかどうかは不明だったが、ユルのマブイは驚くほど素直にククルに従った。




 翌朝、身を起こしたトゥチは――悲鳴にも似た大声をあげた。


「ユルくん!?」


 トゥチは、ククルの横にユルが座っているのを見て、仰天していた。


「姉様、ユル本人じゃない。ユルのマブイだよ。ほら、影が薄いでしょう」


「マブイ――生霊イチマブイってこと? マブイが、抜けちゃったのね……」


 トゥチは呆然として、ユルのマブイをまじまじと見つめていた。


「あら、本当。随分と、輪郭も淡いのね」


 トゥチが微笑んで布団から出ると、ユルのマブイはぷいとそっぽを向いていた。


「あら? ――あらら。そういえば私、まだ寝巻だったわ。ユルくんは、マブイまで恥ずかしがり屋なのね」


「そういう問題なのかな」


 ククルは思わず、笑ってしまった。一方、ユルのマブイは笑っていない。もっとも、マブイが笑うとそれは元に戻せないということらしいので、笑ってもらっては困るのだが。


「マブイ込めをしなくちゃ。マブイ込めが得意な巫女ユタに頼んだ方が良いかな」


「あなただって、ノロでしょう?」


「でも私、したことないんだもの」


 ククルの弱音にトゥチは苦笑し、顔を背けたままのユルのマブイを見やった。


「聞得大君が、捜しに来るかしら……」


「……そうは、思えない。聞得大君ほどの霊力と権力を持った人が、ユルのマブイをここまで放っておかないと思う」


 まだ淡いとはいえ、輪郭は一見しただけでは普通の人と区別がつかない程度にははっきりしている。それだけ、マブイが落ちてから日が経っているのだ。


「それもそうね……。マブイを落としたら体調が悪くなると言うでしょう。ユルくんは大丈夫かしら」


 トゥチの呟きに、ククルはユルを想った。距離的には近いけれども心情的には遥か彼方にそびえる城の中で、彼は今どうしているのだろう。








 体がだるく、熱い。ここのところ、ずっと熱を出していた。


 ユルは薄く目を開け、母親が見下ろしていることに気付いて顔をしかめた。


「何しに来たんだ……」


「ほう、まだ抜け切っておらぬか。がらんどうになってもらわねば、困るのだが」


「何の……話だ」


 ユルの質問には答えず、聞得大君は何やら書物を取り出しぱらぱらとめくっていた。


 ユルは掠れた声で、聞得大君を問い詰めた。


「ババア、オレに何をするつもりだ」


「……器に、するのだよ」


「は?」


「お前のような反抗的な息子は、わらわに従って大人しく国を治めまい? だからマブイだけ抜いて、がらんどうにしようと思ってな」


 ぞわりと、肌が総毛立つ。この頃、頭も体もだるいと思っていたら、マブイを落としてしまっていたらしい。


「ええい、漢語はよくわからぬわ」


 どうやら大陸の呪術らしい。ぼんやりと聞得大君の手元に目をやったが、目が霞んでいて、ちっとも読めなかった。


 ユルの視線に気づいたのか、聞得大君は赤い唇を歪めて妖艶な笑みを形作った。


「お前が悪いのだぞ? 初めからわらわに従わぬから」


「――何だと……」


 従うことなど、出来るはずがなかった。馬鹿げた計画のためだけに、ショウを殺した女だ。従えば、ショウを裏切ってしまうことになる。


「今からでも約束すれば、マブイ込めしてやるが?」


「ざけんなよ……」


 聞得大君はくすくす笑い、ユルの額に手を当てた。冷たくて、恐怖を覚えさせるような手だった。


「ならば、死ね」


 もう生に対する執着が全く無くなっていたユルは、むしろ穏やかな気持ちになって目を閉じたのだった。








 ユルのマブイはふらつく様子もなく、何故かククルの傍に居続けた。


「ねえ、ユルのマブイ」


 妙な呼び掛け方だとわかっていたけれども、他に思い付かずに、ずっとこう呼んでしまっている。


「あなた、ユルのところに帰らなくて良いの」


 ユルのマブイは何も言わずに、ぼんやり天井を眺めるだけだった。


(したことないからって、ぐずぐずしてられないな……。でも、マブイ込めするんだったら城の中に入らないといけないし……)


 ユルのマブイは、とてもおとなしかった。いや、穏やかだったと言うべきであろうか。


 ククルはユルのマブイを連れて、散歩に行くことにした。


 ユル本人が到底浮かべたことなんてなさそうな、穏やかな表情を見ていると、顔がそっくりでなかったら別人かと思うぐらいだ。


(イチマブイって、本人そっくりになるとは限らないんだっけ?)


 そういえば少し性格が変わることもある、と誰かが言っていた。だが、それには個人差があるのだろう。ユルほど正反対になる例は、ついぞ聞いたことがなかった。


(もしかして……)


 波打ち際で足を海に浸すマブイの背中を見つめながら、ククルは思った。


(あれはむしろショウヤ王子に、似てるのかな)


 ユルが憧れ、慕ったという王子に……。


 マブイの影が本物ほど濃くなってしまったら、本物のユルは死んでしまう。


 だから早くにマブイ込めをしなければならないわけだが、このマブイはちっとも逃げようともしないのが不思議だった。


 聞得大君が敢えて無視していることからも、嫌な予感がしてたまらない。


(今の私は兄様のおかげで力が使えるけど、さすがに正面突破は出来ない。誰かの手引きは、必要だ)


 心を落ち着かせて、冷静に考える。脳裏に浮かぶのは、王女のナミだった。協力してくれる人といったら、彼女しか居ないだろう。


 けれど彼女はあれ以来、姿を見せなくなってしまった。


(どうにかして、連絡を取ってもらえないかな)


 ククルは空を仰いで考え込んでから、ユルのマブイを連れて宿に戻ることにした。




 ククルが考えた案を話すと、カジもトゥチも同意してくれた。


「あのアキって男に頼んでみよう。叔父なんだから、何とかなるかもしれない」


 朝餉あさげを食べてすぐに、三人は連れ立ってあの茶屋に向かった。


「いらっしゃ――」


 アキは三人を認めて、深いため息をついた。


「……またかい。ナミは来てないよ」


 朝早いせいか、まだ客は入っていなかった。これ幸いとばかりに、カジは声もひそめずに問う。


「あんたから、連絡取れないのか?」


「私から? ――それは無理だ」


「本当にか? 頼むよ、この通りだ!」


 カジが頭を下げると、ククルとトゥチもそれにならった。


「止めてくれ。もし出来たとしても、あの子は王女だ」


 何が言いたいかは、すぐにわかった。それだけのことをする理由がない、というのだ。


 彼にとっては、ククル達は“何故かユルと共に居たよそ者”に過ぎない。


「あの、事情を話します。お願いですから、話を聞いて下さい」


 ククルの真摯な訴えにアキはもう一度ため息をつき、店の外に向かって歩を進めた。


「おい、あんた」


「暖簾を下ろして来るだけだ」


 カジの呼び掛けに短く答えて、アキは一旦、店を出て行った。




 ククルは自分が海神の血を伝える家から来たことを語り、逃亡したユルが“兄”になったことを語った。


「ユルは、王子になりたくなかったんです。助けられるのは、私だけだと思うから……」


 一通り説明した後、アキは真っ青になっていた。


「おい、あんた大丈夫か?」


 カジの言葉で我に返ったようで、アキは咳払いをして居住まいを正した。


「あ、ああ。しかし――驚いた。八重山の、神の血を伝える家から来たんだったら、君は――ナミの姉なんだね」


 一瞬で、空気が凍りつく。


「どういう、こと?」


 首を傾げながらも、ククルはカジがティンから聞いたと言っていたことを思い出した。


『あと、ティンはお前に妹がいるって言ってたんだ。生まれてすぐ養女に行ったから、お前は知らないだろうが……とも』


 あの時は色々ありすぎて、流してしまっていたが――まさかその妹というのが……。


「どういうこと? ナミさんは王女なんでしょう? 清夜王子と母親が同じだと聞いたわ」


 トゥチが疑問を口にすると、アキは真剣な表情で答えた。


「ああ、王女なのは確かだ。だが、彼女は養女なんだ。今の王の代では、霊力セヂの高い女児が生まれなくてね……。霊力にこだわらず、次の聞得大君は形式的に立てようかという話になったらしいが、今の聞得大君が許さなかったらしいんだ」


 それはそうだろう、とククルにも察しがついた。彼女は神の支配を強めたいが故に、ユルを生んで清夜王子を殺した。そんな彼女が、次代に立つ聞得大君の霊力が低いと聞いて黙っていられまい。


「それでナミは生まれてすぐ、私の家の養女になったんだ。聞得大君も異論はなかった。正妻はもう子供が産めない体だったし、唯一の男児である清夜王子が次の王であることは決まっていたから、同腹の兄妹という扱いにした方が都合が良かったんだろう」


 驚きのあまり、ククルはしばらく口が利けなかった。しかし、ふと頭に浮かんだ事実があった。


「そっか――。ティン兄様を実母のクムさんから奪う時に、王府が協力したって聞いたけど……もしかしたら、それが条件だったのかも」


「なるほど。もしククルの下に女児が生まれたら、養女にするってことか……」


 カジもククルの推測に納得したようだった。


「だけど、ナミさんはそこまで強い霊力を持ってなかったと思うよ」


 ククルは彼女のことを思い出しながら、呟いた。


 確かに霊力はあったが、目を剥くほどではなかった。今の聞得大君にはもちろん劣る。むしろ密林の島で出逢った神女ノロのヤナの方が、ナミよりずっと霊力が高かった。


「ククル、あなたは先祖返りなんでしょう? あなたの妹が同等の力を持っているとは限らないわ」


 トゥチの指摘に、ククルは納得して引き下がった。


「でも、おかしな話ね。王府最高位のノロである聞得大君が、王家の血を引いてなくて良いなんて」


「血よりも、霊力にこだわりたかったんだろ。しかも……王族の祖先ってのは、空の神っていう話じゃないか。ククルの妹だって違う神とはいえ、神の血筋だ。むしろ、そっちにこだわりたかったんじゃないか?」


 トゥチとカジは、共に眉をひそめて顔を見合わせていた。この二人は顔は似ていないのに、ちょっとした仕草がよく似ている。


 カジの推理は、大いに考えられる話だった。しかも聞得大君は王と違い、子は残さない。


「しかし、王族がお前ら兄妹みたいな力の使い方をするとは知らないな。もしかしたら、形骸化したのかもな」


「……そっか」


 カジの呟きには説得力があった。ククルの家は祭祀の役割に特化し、王家は政治に特化した。それぞれ、担わない役割は形骸化し、忘れられていった面もあるのかもしれない。


 だけど、ユルはオナリ神の力が強いことを、知ったはずだ――。


「ユルは、ナミさんが私の妹だって知らないもんね。もし知ってたら、もっと早くに力を使ったはず」


 ナミの正確な霊力は不明だが、ユルは半神だ。聞得大君を傷付けるだけの力を、得たかもしれない。もっとも、ナミでなくても王家自体が神の血を引いているのならば――本来は王族の姉妹から、力を借りることは出来たのかもしれないが。


「ユルくんは、兄妹神の力はあなたの家特有のものだと思っていたのかもしれないわ。実際、他に例がないでしょう」


「そう、だね」


 航海や漁の時に、姉妹の――オナリ神の守りの力を頼りにすることはあっても、ククルのように傷を治したり反対に敵を倒すような力を与える姉妹なんて、他に居なかった。


「聞得大君の役割はまた、あなた方の言う兄妹神とは違うでしょう。主に祭祀を行い、そこで潜在的な霊力が重視されるわけですから」


 そこで、アキが口を挟む。彼は、やけに詳しかった。


「ナミ自身、自分が養女であることは知らないはずです」


「そうなんだ……」


 ククルも未だに信じられないというのが本音だった。妹が居たことすら知らなかったのだ。淡い記憶すら、残っていない。


「さて――話が逸れましたが、あなた方の事情はわかりました。何とか、ナミに連絡を取ってみましょう。私としても、ユル様のことは心配だ。聞得大君の言うことを、彼が素直に聞くとは思えないから――酷い目に遭わされているんじゃないかとね」


 ククルは胸に痛みを覚えた。


 冷たい、聞得大君の目を思い出すと心が震える。あれが、母親の子供を見る目だとはとても思えなかった。


 狂気をはらんでいたとはいえ、ティンを想って泣き叫んでいたクムの方がよほど母親らしいだろう。


「もしユルくんが逃げたら、王家はどうなるのかしら」


 独り言のようなトゥチの言葉に、アキは眉をひそめた。


「正式な男児の御子は、清夜王子おひとりでしたからね。まだ王もそこまでお年ではないので、世代交代を遅らせて新たな御子が授かるまで待つかもしれません。いずれにせよ、そこまであなた方が気にする必要はないかと」


 きっぱりとアキに告げられ、ククル達は不安を覚えながらも顔を見合わせた。


「それより、現状を何とかしないと。ユル様がマブイを落としたままだというのも気になりますね」


「そうなの。マブイを落としてから、かなり経ってそうだし」


 不安で思わずアキの手を握り締めると、彼はやわらかく笑ってくれた。


「わかりました。どうか、任せて下さい。明日、また茶屋に来て下さい」


「うん! ありがとう!」


 泣きそうになりながらも、ククルは礼を述べた。


(助けるからね)


 絶対に、と誓いを胸に抱いて、ククルは遠くのユルに向かって呼び掛けた。


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