第九話 王子 4

 城しか知らない、と言われたが、正にその通りだった。市井の暮らしは、何もかもが新鮮だった。


 倫には都に、たくさんの知り合いが居た。二人を王府の役人から隠し、すぐに逃亡の手配をしてくれた。


 ユルと倫は初めは大陸に渡ろうとしたが、それだと手配に相当な時間が掛かるというので、一旦、八重山諸島へ逃げることにした。本島に比べると、王府の支配がまだ緩かったからだ。


 そうして逃げて来た、八重山諸島。


 彼らが身を隠すために選んだ場所は、人魚の言い伝えが残る島だった。信覚島しがきじまの方が便利で人口も多いのだが、その分、王府の役人もよく姿を見せるために危険だと、倫が判断したのだった。


 何もかも、ユルには新鮮だった。まず、方言が別の言語かと思うほど違っていた。しかし別の言語ではないので、外国語を覚えるほど苦労はしなかった。少しずつ、集落の人から言葉を覚えて行った。


 そして自然に、圧倒されそうになった。手入れのされていない原生林に、誰も居ない浜辺。夜、星を見上げていると吸い込まれそうになった。


 しばらくの間は、穏やかに暮らしていた。だが人魚を求める官吏との騒動で、また一つ悲劇が起こってしまったのだった――。




 ある日、島人に横暴を働く官吏を腹に据えかね、倫は交渉に行ってしまった。付いて来るなと言われたが、ユルは顔を布で隠して倫の後を追った。


 追い付いた時にはもう、役所の前で倫が官吏にまくしたてているところだった。倫の達者な弁舌に適うはずもなく、役人は顔を真っ赤にしていた。


「黙れ、このジジイが!」


 激昂した役人は、抜刀して倫を斬った。止める間も、なかった。


 倫の薄い体は、呆気なく地面に投げ出される。


「倫先生!」


 ユルは駆け寄り、ごぼごぼと血を吐く倫の傍らに膝を付き、彼を抱き起こす。


「倫先生……!」


「ユルくん、すまない。私が付き添ってやれるのはここまでだ……。諦めず、生きるのだよ……」


 そうしてあっさりと、倫はこと切れてしまった。本当に、命とはこうも簡単に奪われてしまうのかと――ユルは怒りすら忘れてうなだれた。


 倫の死によって、官吏は大いに慌てた。殺人の証拠を隠し、さっさと引き上げて行ってしまった。


 逃亡生活のために、倫は戸籍のない者になっていた。だからこそ罰せられることもなく、役人はおめおめと逃げて行ったのである……。


 皮肉なことに、倫の説得ではなく彼の死によって官吏は島から引き上げた。


(倫先生……)


 信じられなかった。昨日まで、笑って隣に居たのに。


 しきりにユルに泣いて謝る島人達の声も、耳に入らなかった。


 呆然としたまま、ユルは島人達と共に倫の体を埋めて、墓を作った。夜になってようやく完成したそれを前に――ユルはようやく、泣いた。




 墓を後にしたユルは、浜辺に向かった。


 ショウを失った後で程なくして倫を失い――どうしたら良いかなんて、わからなかった。


 二人以外に、心許せる人など居なかったのに。


 海辺に佇んでいるといつの間にか潮が満ちて来て、足首まで水に浸っていた。


「……もう、良いかな」


 ショウは、聞得大君による謀り事によって死んだ。

 倫は本当だったら、こんな僻地で死す運命ではなかっただろう。


(誰が、彼らを死に追い込んだ? ……オレだ)


 誰が言わなくてもわかる。自分は、生まれたことが間違いだったのだと。


(……馬鹿らしい)


 影武者として、ショウを助けて生きて行くのだと思っていた。なのに、自分に与えられた本当の役割は、簒奪者さんだつしゃだったのだ――。


 このまま、素知らぬ顔で生きてはいけない。覚悟を決めて、海へと一歩進めた時だった。傍らに、薄い光を放つ青年が、傍に立っていることに気付いたのは。


「あんた……誰だ?」


『私はティン』


 澄んだ声はまるで、天上の音楽のようだった。そこでユルは、青年が死んでいるのだと気付く。


『君は、何をしようとしている?』


「見りゃ、わかるだろ。入水だ」


『君のような若人わこうどが、どうしてだい?』


「あんたに話したって、わかんねえよ」


 ユルはさっさと歩こうとしたが、ティンの一言で足を止めた。


『――君は天命で死なない限り、死ねないよ』


「……何だって?」


『君も半身にニライカナイの血を持っているらしい。君が死んでも、半神になるだけだ。私のようにね』


 ティンは甘い笑みを浮かべる。ユルは呆然として、青年の次の言葉を待った。


『正確に言えば、普通の人間のようには死ねないんだ。こうやって私のように、ニライカナイに住むものとなる……だが、人間の血も強いからね。ニライカナイにはいつまで経っても馴染めないのに、人間に戻ることは出来ない。本当なら、こうやってこちらの世界に帰って来るのも出来ないんだけれども』


 ティンはゆっくりと、ユルに近付いて来た。


『そんな半端な存在になる前に、私と契約を交わさないかい?』


「契約……だと?」


『私には妹が居る。けれど私は神の怒りを買って、人としてはもう生きられなくなったんだ。人間であり神の血を引くからこそ、あの子の兄で在ることが出来たのに』


「あんた一体、何を言ってるんだ?」


 ユルは改めて、目の前の男が不気味だと思った。大体、「私は神です」と言われてすぐに信じるほど単純ではない。


『私の妹、ククルは神の力を持つ。“兄”となった男児に力を与えることが出来るんだ。二人合わせて初めて神の力を発揮出来る存在だから、一人欠けるとただの人になってしまうんだよ。ククルはとても血の濃い……先祖返りをした子だ。血が濃いくせに無力なあの子を、魔物マジムンはきっと食いたいと思うだろう。今まで、私が守ってやっていたが――もう、そうはいかない』


 ティンは驚いたことに、ユルに頭を下げた。


『どうせ死ぬつもりだったのなら――君の人生をやり直すと思って、あの子の兄になってはくれないか』


「……それが、契約か」


『ああ。君には、安定した身分が与えられる。衣食住も供給されるだろう。悪くない条件じゃないか?』


 そこで、ユルは嘆息した。


「……別に、良いけど」


 どうせ、惜しくもない命だった。


 それに――


(もし、神の力とやらが有効なんだったら)


 あの女を、殺せるかもしれない――。


 ショウが殺された時、ユルは復讐のために聞得大君を殺そうとした。しかし、この国でも指折りの霊力セヂを持った母親には、一太刀も遭わせることが出来なかった。ウイという強い守護が付いていたせいもある。


『君は、王族なんだね』


 指摘されて、ユルは口元を引き結んだ。何故わかるのかと、半神を名乗るこの青年に問うのは無粋だろうと判断し、一言だけ口にする。


「捨てた、身分だ」


『そうかい。それなら良い。君は過去を忘れ、ククルの兄として生きて――あの子を守っておくれ』


「わかった。契約を交わそう」


 そうして、ユルはティンと契約を交わしたのだった。




 ティンの教えてくれた島までは、親切な島人が船で送ってくれた。ティンに言われた通り、ティンだけしか知らないはずの家の事情をまくしてたてると、ティンの祖母――義理の祖母らしいが――は、あっさりとユルを受け入れてくれた。


 その神の血を伝える家で出逢ったティンの“妹”ククルは、兄を失って泣いてばかりいる、弱々しい少女だった――。


 しかし、その力は本物のようだった。島人の話の端々から、ククルは“兄”に強力な力を与えることが出来るのだと聞いた。


 挨拶回りの旅があると聞き、それに乗じて王府にまで行けないかとユルは考えた。


(もし力が使えなくても、良い。その時は、途中で帰って来れば良い話だ)


 鉈を喉元に当て、ククルの祖母を脅し――聞得大君の元にまで行く指示を無理矢理出すようにと強要した。


 ――――そうしないと、皆殺しにしてやる。


 ただの脅しだったのに、ククルの祖母は怖気おぞけを奮っていた。彼女もノロだというから、半神の発する殺気が恐ろしかったのかもしれない。


 後は――ククルの力が本当に使えることがわかり、ユルはためらいなく都を目指すことが出来た。


 けれど――


 肝心な時に、ククルは力を貸してくれなかった。


 当たり前だとも、思う。心の底で、わかっていた気もする。ククルはどんな事情があろうとも、人を殺すために力を貸すことはないと――。


(それでも、諦め切れなかった)


 あんなにもあっさりとショウを殺し、それが自分のためだと笑う母親が憎くて仕方がなくて――復讐せずにはいられなかった。


(だけど、最悪の事態になった)


 もう、聞得大君はここから自分を出すまい。


(さっさと家に帰れよ、って言うの忘れたな……)


 振り回して振り回して、最後に酷く傷付けた少女の顔を思い浮かべる。


 弱々しい印象しかないくせに、変なところが頑固で意地っ張りで――実のところ芯は、案外しっかりしている……ひとときの“妹”。


 一言、謝れば良かった。


 悔いてユルが目をつむった時、温かな手が頬に触れた。


 ククルかと思って目を開いたが、そこに居たのはかつての――妹だった。


「ナミ……」


「お兄様、平気?」


「もうその呼び方止めろ……。オレはお前の兄なんかじゃない」


「……だって。ショウお兄様とユルお兄様……二人共、私のお兄様だったんですもの……」


 涙を零し、ナミはユルの頭を撫でた。


「かわいそうなユルお兄様。あんなにショウお兄様のことを好いていらしたのに……」


 ナミは声を詰まらせ泣きじゃくった。


「オレは、かわいそうじゃねえよ。かわいそうなのは、ショウだろうが」


 何も知らずに、ユルを無害な影武者だと信じて死んで行った。


 どんな顔をして死んで行ったのだろう。遺体は見ていない。王子であるにも関わらず、その死を伏せるため、葬儀も内輪でしか行われなかったのだろう……。


「お兄様、怪我は痛くないのですか。医師を呼んで参りましょうか」


「良い。もう……疲れた」


 深いため息をつくユルを見下ろし、ナミはまた涙を溢れさせた。


「あの女の子――ククルさんから、伝言を預かって参りました。もしあなたが望むなら、いつでもこちらに戻って来てと……いつでも歓迎すると……」


「……馬鹿……すぎるだろ」


 思わず、呆れた声が漏れる。


 この後に及んで、ククルは何を言っているのか。


(合わせる顔なんか、ないに決まってるだろ)


「お兄様?」


「もし、あいつに会ったら伝えてくれ。無事に帰れよ、って。……あと、悪かったな……って」


 もう自分は一生、城の外に出してはもらえないだろう。それでも、良い気がしていた。


 外の世界は、目新しいものばかりだったけれども、何を見ても心には哀しみが満ちていたから。


 倫が死んだことで、その哀しみは一層深みを増した。


(この世は、残酷だ――)


 だからといって、ユルを間接的に苦しめ、ティンを今も苦しめているニライカナイが本当に楽園だとも思えない。


「ユルお兄様」


「もう、お前も行け」


 寝返りを打って後ろを向いてしまうと、ナミのすすり泣く音だけがやけに耳についた。


「……いつまで、そこにいるんだ。ナミ。オレはショウにはなれない。お前の本当の兄貴は、死んだ」


「そんなこと、わかってます! ユルお兄様の馬鹿! 私はそんな目で見てないのに!」


 怒鳴られ、驚いて振り返った時にはもうナミの姿はなかった。


 もう、ナミの姿を見るのもこれで最後かもしれない。きっと、聞得大君はもうナミには会わせないだろう……。


 隔離され、思い通りの人形にされる。逃げようとする気力も、残っていない。


 虚ろな目で何もない空間を見つめて、ユルは息をついた。



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