第五話 緑樹 2
目当ての島に着き、ククルは不安そうに辺りを見渡した。
日暮れに浮かぶ集落は、実に小さいものだった。とても大きい島なのに、港に近い集落がこんなに小さいとは驚きだ。
「俺とトゥチは、ここに滞在する。ついでに商いも手伝って来るぜ」
カジがこう判断したのは、港から離れれば離れるほどこの島の中心を為す密林に近付くことになり、風土病に感染する危険性が高まるからだろう。
ノロが霊力で病を遠ざけているとはいえ、その力はこの島に住む者にしか有効ではない。よそ者までは守ってくれないだろう。
その点、ククルとユルは神の力で病から自身を守ることが出来る。
ここまで危険を犯して付いて来てくれたカジとトゥチには、感謝してもし切れない。
「有難いけど、カジ兄様。商いが終わったら、一旦他の島に行ってて欲しいの。挨拶するのに、どのくらい時間がかかるかわからないし、その間に二人が病にかかることがあったら大変だもの」
ククルがきっぱり言うと、カジは苦笑した。
「お前がそう言うなら、そうしよう」
「兄さん、でも……」
何か言い掛けたトゥチに向かって、カジは首を振る。
「ククルの言う通りだ。俺達には神の力もないから、病にかかるかもしれない。そうなったら、都まで付いて行ってもやれない」
カジの言葉に、トゥチは唇を噛んだ。
「今晩はここに泊まって、俺とトゥチは
「うん、わかった」
信覚島は、この諸島の中心地となる主島だ。面積は今居る島の方が大きいのだが、人口は圧倒的にあちらの方が多い。
カジも、商人としての拠点地はそこに置いているらしい。
「今晩は、しばしの別れを惜しむか!」
「うん」
ククルは微笑んだが、ユルは話を聞いているのかいないのか、無表情で佇むばかりだった。
宿の食堂で、ククル達は食事を取った。カジは食事だけでなく、酒をちびちびと飲んでいたが。
「っかー、美味い!」
赤い顔をしたカジは、空になった酒の杯を音を立てて机の上に置いた。
「兄さん、飲み過ぎよ」
トゥチは兄を横目で見て、呆れていた。
こうして並んでいるのを見ると、カジとトゥチがあまり似ていないことがわかる。よく見れば目元などは若干似ているのだが、言われなければ兄妹とはわからないだろう。
そういえば、ククルとティンも似ていなかった。共通点といえば、互いに色素が薄かったことぐらいだろうか。二人とも色が白くて、髪は茶色だった。
「地酒は気に入ったかい」
「もちろんだ!」
店員に問われ、カジは豪快に笑った。
「ノロ様のところに行くんだって? 大変だね」
店員は誰から聞いたのか、ククルに尋ねて来た。
「はい。ノロ様がどこに住んでいるか、ご存知なのですか?」
「それは知らないけど、訪ねる者があれば彼女が導いてくれると聞いたよ。もっとも、用もない人間には会ってくれないらしいがね。私など、一生会えないだろう」
店員の口調には、尊敬の念が滲んでいた。
「やっぱり、ノロ様って凄い人なんですか?」
「それはそうだよ。この島にやっと、安心して定住出来るようになったんだから。もちろん必ずかからないというわけじゃないが、病になる人はぐっと少なくなった。それだけでも有難い。会ったら、よろしく伝えておくれ」
店員はそう頼んでから、他の客のところへ行ってしまった。
この島のノロは、とても慕われているようだ。この島の歴史を考えれば、頷けることでもあったが。
ぼんやりしていると、カジが笑い掛けて来た。
「ククルも飲むか?」
「け、結構です」
薦められ、ククルは慌てて押し付けられた杯を押しやった。
「ティンが居なくなって、つまんねえな。島に帰って、あいつと飲むのが何より楽しみだったのに」
カジの呟きは、まるでティンが死んだのではなく一時的にどこかに行ってしまったような……そんな口ぶりだった。
だからこう聞いても、兄の死に敏感であるはずのククルの心も痛まなかった。
そういえば、ティンはカジとよく飲んでいた。しかしティンが酔っぱらったところを見たことがないのは、何故だろう。
「おい、ユル。お前は飲めないのか?」
大分酔いが回っているらしいカジは、さっきからつまらなさそうにしているユルに話を振った。
「兄さん、ユルくんはククルと同い年よ。まだ早いわ」
「何言ってる。俺とティンは、十二から飲んでたぞ。ユル、飲んでみろ」
めげないカジは、ユルに杯を押し付けた。杯に満ちる透明な液体を見下ろし、ユルは首を傾げた。
「弱いんだったら止めといたら良いがな」
「……弱くない」
カジの言葉を挑発と受け取ったらしいユルは杯をあおり、一気飲みしてしまった。
「ユル! あああ、馬鹿なんだから」
呆れるククルに反して、ユルは平気な顔をしていた。
「……へえ。末恐ろしい奴だ」
カジは、おかげで少し酔いが覚めたらしい。
「二度と、オレを弱いなんて言うなよ」
その強い口ぶりに、他の三人は戸惑ったように眉をひそめた。
そんな反応をよそに、ユルは杯をカジの眼前に突き付けた。
「おかわり」
「本気か!?」
「飲ませたのは、あんただろ?」
そう言われると何も言えず、カジはユルの杯に酒を注いでいた。
案の定飲み過ぎたらしいユルは、机に突っ伏してぶつぶつ呟いていた。単に顔に出ないだけで、いわゆる“ザル”ではなかったらしい。
「畜生……畜生……」
「ユル、大丈夫?」
ククルが隣に座って揺さぶると、つむられたユルの目からほろりと涙がこぼれた。
(――え?)
ユルの涙を見て、ククルは思わず動きを止めてしまった。
「こいつ、泣き上戸か。こんなに酔っ払うなんて……参ったな」
カジも目撃したらしく、ため息をついていた。
「元はと言えば、兄さんが薦めたせいでしょう! 明日にはノロの家を目指さないといけないのに、こんなに酔わせて!」
「わーるかったって」
トゥチに叱られ、カジはばつが悪そうに頭を掻いた。
「ユル、起きて。部屋まで行かなきゃ」
我に返ったククルは、もう一度ユルを起こしにかかる。
馬鹿みたいに、驚いてしまった。だって、いくら酔ったからってユルが涙を見せるなんて、信じられない。
「仕方がない。俺が運ぶぜ。多分、細っこいから軽いだろ」
カジがユルの腕を掴んだ時、跳ね起きるようにしてユルは目を覚ました。
「――オレに触るな!」
そしてふらふら立ち上がり、さっさと二階に上がって行ってしまった。
「怒り上戸だったの?」
「……少なくとも、笑い上戸じゃないな」
トゥチとカジは顔を見合わせ、呑気な会話を交わしていた。
翌日、朝食に起きて来たユルは不機嫌そうな顔をしていた。
「頭いてえ……」
「かわいそうに。二日酔いね」
トゥチに頭を撫でられそうになって、ユルは慌ててトゥチから離れていた。
「あら」
トゥチはユルの反応にびっくりしたらしい。
「姉様。ユルは女の人、苦手なんだって」
「そうなの? あなたには普通なのにね」
そこには不愉快な理由が絡んでいるので、ククルは仏頂面でそっぽを向いておいた。
「兄さん、反省しなさいよ」
「へいへい」
またトゥチに怒られ、カジは肩をすくめていた。
「昨日言ったように、俺とトゥチは一足先に信覚島に行っておく。お前らのことは頼んでおいたから、ノロに会った後はここに帰って来て、宿の主人に言え。信覚島行きの船に乗せてくれるよう、頼んでくれる」
「ありがとう!」
カジに向かって、ククルは素直に感謝した。
「急がなくて良いから、気を付けて行って来るんだぞ」
カジに念を押され、ククルとユルは真剣な面持ちで頷いた。
また、二人での旅が始まるのだ――。
カジとトゥチとは一旦別れ、ククルとユルは集落を出た。
そこでククルは、何か“とんとん”と耳の内を叩く音が聞こえていることに気付く。
『よく来たね、神の娘。さあ、この子に付いてお行き』
いつの間にか、二人の目の前に大きな山猫が現れていた。
「この子に付いて行って、だって」
ユルに説明すると、彼は顔をしかめた。
「よりによって、猫に付いて行けってか」
ユルの言葉がわかったのか、山猫が「フーッ!」と威嚇して来て、ククルは思わず飛びのいてしまった。
「ユ、ユル。刺激しないでよ。食べられちゃったらどうするのさ」
「馬鹿野郎。猫が、人間を食うわけないだろ」
強がっている割には、ユルも山猫から離れている。
ふんっと顔を背け、山猫は二人を先導するかのように前を歩き始めた。
ククルは改めて、前を見た。眼前に広がるのは、濃厚な緑――人を寄せ付けぬ原生林だった。
ククルは神に、病気をもたらすものから守ってくれるように祈った。ユルの体が燐光を帯び、そのままユルはククルにも手を伸ばす。光は、ククルに移ったと同時に消えた。
そして二人は、密林へと入っていった。
ククルとユルは、山猫の後を付いてひたすらに歩いた。視界と道を阻む木の枝を鉈で切り払いながら、ユルは舌打ちする。
「暑くてたまんねえな」
止め処なく流れる汗を腕で拭うのは、ククルも同じだった。
数年前に体験した暑さが蘇って来て、奇妙な既視感を生む。何もかも、数年前と一緒だった。
違うのは、前を行く兄がティンではなくユルだということだ。
しばらく歩き続けていると、山猫が開けたところで足を止めた。天然の泉が湧いている。ここで休め、ということなのだろうか。
「ああ、助かった」
ククルは泉の水を手ですくい、ごくごくと飲み干した。
ユルも水を飲んでから、地面にどっかと腰を下ろす。
「暑くて死にそうだぜ」
「そうだね」
ククルは相槌を打って、もう一度水を口に運んだ。水筒にも入れておかねばならないが、今は水筒を取り出すのさえ億劫だった。
「あの猫、喋らねえのか?」
「喋らないと思うよ。あの猫の主人である、ノロとは喋れるのかもしれないけどね」
「ふーん」
ユルは大して興味もなさそうに、生返事をした。余程疲れているようだ。枝を切り払いながら進んでいるのだから、ククルよりも体力を消耗しているのだろう。
「私が、先頭行こうか?」
ククルの申し出に、ユルは顔をしかめた。
「お前、剣なんか使えねえだろ」
「でも、枝を切ることくらい出来る」
剣術は習ったことすらなかったが、そのくらい出来るだろうと高をくくってククルはユルに顔を近付けた。
「お前が先頭行ったら、倍掛かっちまうぜ。良いから、オレの後に付いて来い」
「……わかった」
ククルは引き下がり、何とはなしに二人を面白がって見ているような山猫に目をやった。
結局、その日の内にノロの家に着くことは出来なかった。それというのも、夕方になって山猫がいつの間にか姿を消してしまったからだ。
「ったく、どこ行ったんだよ」
「しょうがないよ、ユル。今日は野宿しよ。ちょうど泉もあるし」
一度休んだところと同じような場所だったので、野宿には適しているだろう。
ククルは火を起こすために、枝を捜し始める。しかし湿っている木ばかりなので、薪としては役に立たなさそうだ。
困ったな、と思っているとユルに突かれた。
「何?」
「あれ」
ユルが指差した先には、焚火が在った。
「ノロの気遣いか?」
「まさか」
ククルはユルの質問に反射的に答えたが、周りに他に人は居ない。それに、さっきまであんなところに焚火はなかった。
「有難く使おっか」
と言って、ククルは火に近寄った。
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