第五話 緑樹

 そろそろ夕食、というところで懐かしい声が響いた。


「ただいま」


 ククルは食器を並べる手を止め、恐る恐る立ち上がる。


「兄さんが、商いから帰って来たみたいね」


 台所からトゥチが出て来て、玄関まで小走りで行ってしまった。


 トゥチの兄であるカジが昨日居なかったのは、商いのために出先で外泊していたためである。


 ククルは部屋から、ひょっこり首だけ出す。


「おかえり、兄さん」


「おう、トゥチ。あれ? 何か、履物はきもの多くないか?」


 大柄な体に、強面ながら優しそうな目元。彼を見ただけで、ククルの口元は綻ぶ。


「カジ兄様にいさま!」


 堪え切れず、ククルは飛び出した。


「……ククル!? おいおい、久しぶりだな!」


 飛びついて来たククルを思いっ切り抱き締め、カジは笑った。一度体を離し、カジはククルの目を覗き込む。


「ああ、そうか。旅してるんだったな。噂で聞いたぞ」


 カジはククルの後方に目をやり、目を細めた。


「じゃあ、お前がククルの新しい“兄”だな。――名前は?」


 いつの間にかククルの後ろに居たユルは、身動ぎもせずカジを睨み付ける。


「……ユル。あんたは?」


「俺はカジ。トゥチの兄で、ティンの親友だった」


 カジはユルの非友好的な視線も意に介せず、穏やかに微笑んだのだった。




 夕食の卓は、四人で囲むことになった。


 仏頂面で黙々と食べるユル。そのユルに穏やかな視線を向けるカジ。そんな二人に、戸惑うククルとトゥチ。


(な、何だろうこの妙な雰囲気……)


 ククルは澄まし汁をすすりながら、ユルとカジに交互に目をやった。


「……ユル」


 カジに呼ばれ、ユルは険呑な目つきをしながら顔を上げた。


「何だ」


 誰かに対峙する時のユルはいつも、少し大人びる。まるで誰かに、そうしつけられたかのように。


「どうして俺を敵視するか、教えてくれないか?」


 カジの問いはもっともだった。ユルには、カジを敵視する理由などないはずなのだ。


「別に敵視してない。あんたの気のせいじゃねえのか」


「そんなら、良いんだけどな」


「ご馳走様」


 ユルは箸を置き、立ち上がってどこかに行ってしまった。


「……カジ兄様……」


 心配そうにするククルを手で制し、カジはゆっくりとユルの後を追った。




 ユルは庭に佇んでいた。闇がまるで彼を守るように、その身を包み込んでいる。


「ティンと会ったことがあるんだな」


 カジに問われ、ユルはゆっくり振り向く。その目は未だに敵意を灯していた。


「そして、ティンに敵意を覚えているから、親友だという俺も気に食わない。……違うか?」


 カジの推理に、ユルは答えの代わりに仏頂面を返した。


「当たりのようだな。ティンの親友だ、と言った瞬間、お前の顔が険呑になったから、こう推理したんだ」


「へえ? それでオレのことがわかったつもりかよ」


 ユルの挑発的な言葉にも動じず、カジは彼に一歩近付いた。


「お前はククルの婆さんに選ばれたんだ。俺にどうこう言う権利はない。ただ、ククルを傷付けるようなことだけはするな。それだけだ」


「随分と友好的じゃないか」


 もっと攻撃されると思っていたのか、ユルは肩の力を抜いた。


「……トゥチから色々聞いたが、ククルは一応お前に懐いているようだからな」


「は?」


「あの子は本能的に危険な人物がわかると、ティンが言っていた。つまり、お前はククルにとっては危険じゃないんだ」


 意外な説明に、ユルは皮肉な笑みを浮かべた。


「あいつの予知が正しいとは限らない」


「ククルは特に神の血を色濃く引く子だ。外れるわけがない」


 ユルもカジも、どちらも引かなかった。


 しかし、先にユルが呆れたように息をつき、家に向かって歩き出した。


「俺も商いの旅ついでに、お前達に同行させてもらう。良いだろう?」


 カジの申し出に、ユルは小さく頷いた。


「好きにしろ」


 横を通り過ぎるユルを眺めながら、カジは大きなため息をついた。


 


 ユルもカジも一旦、ククルとトゥチが待つ食卓へと戻った。食事が途中だったカジは、また箸を握る。


「ククル、俺も都まで付いて行って良いだろう?」


 ククルはカジも同行してくれると聞いて、もちろん喜んだ。


「本当? やったあ!」


「次はどこの島に行くんだ?」


 カジの問いには、トゥチが答えてくれた。


「――あの、密林の島らしいわ」


 この諸島には、一際大きな島がある。土地のほとんどが密林で覆われ、風土病のためにほとんど人が住んでいないという島だ。


 ククルの親戚で偉大なる神女ノロが、そこに住んでいた。その霊力には祖母も敵わないと、彼女は常々零していた。


 神々に愛された女と言われる彼女は、その島の数少ない住人を病から守っているらしい。


「ククルはその島に行ったことがあるのか?」


「うん。でも、島の中までは私達二人で行かないといけないと思うの。前もそうだった」


 何せ密林が多いので案内人を雇おうとしたのだが、そこのノロがティンと自分の脳内に直接語り掛けて来たのだ。


『案内人がなくとも、私の所にちゃんと導くと約束しよう。だからお前達二人でおいで。私は滅多なことで人に会わないと決めているのだ』


 と――。


 こんなに記憶がはっきりしているのは、この出来事をティンが不思議な思い出としてよく語っていたからだ。


『あれはどうやったら出来るのだろうね? 私達も鍛練すれば出来るだろうか』


 ティンとククルも何となく互いの心が通じることはあったが、ここまでハッキリと言葉を紡ぎ合うことはなかった。


「そうか。なら、島の港まで送って行くぜ。もうちょっとこの島でやることがあるから、出発は明後日で構わないか?」


「うん、ありがとう。カジ兄様」


 ククルが笑うのを見て、カジも微笑んだ。


「良かったな、ククル。やっと、前みたいに笑うようになったな」


 指摘され、ククルは戸惑って頬に手を当てる。


 ティンが死んでからしばらくは、この面に笑みが刻まれることはなかった。哀しみが影のように張り付いていた。


 笑ってはいけないような気がしていた。何故なら、ティンが死んだのは……。


「ククル、良いんだ。笑っても、良いんだよ。ティンだってきっと、そう望んでる」


 ククルの心中を察したのか、カジは優しい声でそう言ってくれた。


 だからもう一度笑おうとしたけれど、上手く笑えずに泣き顔のようになってしまった。




 ククルは布団に包まりながら、いつかの旅のことを思い出した。




 ノロが道を示してくれたものの、道は自分達で切り拓かなければならなかった。


 ねっとりとした暑さの中、密林を歩くのは至難の業だった。


 ティンに手を引かれながら歩いていたククルは思い切り転んでしまい、足を痛めた。


『ククル、祈りの力を貸して。それでお前を治そう』


『はい』


 ククルが神に祈ると、ティンの体が光を帯びる。燐光をまとった手をククルの踝に当てると、すぐに痛みは引いて行った。


 そうしてククルはまた歯を食いしばって歩き出したが、しばらくすると先ほど治したところがまた痛くなってしまった。


 けれど、刀で木の枝を切り払って道を拓く兄の背を見ると、すぐに弱音は吐けなかった。しばらく歩き続けてから、とうとうククルは痛みに涙を零す。


 ククルの動作が緩慢になったことに気付いたのか、ティンは足を止めて振り返った。


『ククル? どうしたんだい』


『足が痛いよう……』


『治したはずなのに?』


 ティンは慌ててククルを木の根元に座らせ、足を調べた。


『ああ、そうか。お前が疲れているから、力が不十分で完全に治せなかったんだね』


『痛い……痛いよう』


 しくしく泣き始めたククルを見て、ティンは優しく微笑んだ。


『ほら、ククル。背負ってあげるから、おいで』


 すぐに背を向けて屈んだティン。ククルは倒れ込むように、兄の背にしがみついた。


『もう少しだけ進んだら着くらしいからね。頑張ろうね』


『……うん、頑張る』


 といってもククルはその後、疲労と安心のせいで眠り込んでしまったのだが。




「兄様には、迷惑掛けたなあ……」


 現実に戻り、ぽつりと呟く。


 ククルを背負いながら道なき道を歩くのは大変だったはずだ。


(私もあの時よりは体力付いたし、大丈夫だと思うけど……心配だな。間違っても、ユルに背負われるなんて展開は無しにしなくちゃ!)


 そんなことになったらユルは罵詈雑言を浴びせるだろう。考えるだけで非常に憂鬱だ。


(絶対絶対、ユルに甘えないんだから。頑張れ私!)


 重い、と言われたことを、ククルは根に持っていたのだった。




 晴天にも恵まれ、航海は順調だった。


「もうすぐ着くそうだぞ」


 船の端で海を見ていると、いつの間にかカジが隣に来ていた。


 大きな船は揺れも少なく、楽だった。この船は、カジの友人である商人のもので、商いに向かうついでに乗せてくれたのだ。


「本当にカジ兄様とトゥチ姉様が居ると、心強いよ」


「嬉しいこと言ってくれるじゃないか」


 カジは満面の笑みを浮かべたが、すぐに真顔になった。


「――トゥチが酷いことしようとしたらしいな。すまない」


 真剣に謝られ、ククルは首を振った。


「姉様も謝ってくれたもの。それに、恨まれても仕方ないもの」


「……すまないな。何度も何度も言い聞かせたんだが、お前を憎むばかりだったんだ」


 改めてそう聞くと、胸が痛かった。それほど、トゥチの中ではティンを失った哀しみが深かったということなのだ。


「しかしお前に再会してからは、憑き物が落ちたみたいだ。本当に良かった。あいつに感謝しなきゃな」


 “あいつ”とは、ユルのことを言っているらしい。


「ねえ、カジ兄様。ユルのことどう思う?」


「そうさな……」


 カジは日光を浴びて光る水面に視線を注ぎながら、静かに言った。


「頼れる奴だ。だが、完全に信じられるかは問題だ」


 トゥチと同じような意見だった。それが何故だか哀しくて、ククルは唇を噛んだ。


「でもね、兄様が夢に出て来たの。そして、ユルを指差したの」


 ククルの話を聞いて、カジは目を細めた。


「ティンが……?」


「何も言わずに、指だけ差した。でも、とても意味深だと思う」


 まるで“後は彼に託す”と言わんばかりの動作だった。


 ただの夢ではない。死んでしまった兄が、たしかに夢に現れて示してくれた。


「ククル。それだけで判断するな。本当にお前が信用出来ると思うなら、他の理由を捜すんだ」


「私には十分な理由だもん」


 拗ねた顔をしたククルの頭を、カジが優しく叩く。


「その理由は、“ティンがそう示したから”だろう? 本当にユルを信じていることにはならない。ユルを信じたいなら、他の理由を見付けて信じてやれ。兄妹の力は、互いの信頼が一番大事だとティンに聞いたぞ?」


 カジの言う通りだった。実は、ユルが具現化する神の力はティンの力よりも劣っている。それは血のつながりがないからでも、知り合って日が浅いせいでもなく、単に互いの信頼度が低いためだとククルは直感していた。


「確かに身元も不明だから、信用するのは難しいけどな。つーか、俺がさっき言ったばかりだけどな。ま、気楽に判断しようぜ」


 ククルは、カジのこういう前向きなところが好きだった。


(兄様抜きで、ユルを信じる……かあ)


 でも、信頼出来ないのはユルのせいでもある。こちらが懐く素振りを見せれば、ユルはすぐに冷たく振り払うのだから。


(ユルは私を信頼してないのかな。それとも利用するだけ、と思っているのかな)


 ユルのことを、どう思えば良いかわからなかった。割り切れと言われても、そんな簡単に出来ることではなかった。


「どうもあいつは、ティンに会ったことがあるらしい」


 カジの言葉に、ククルは身を震わせた。


「兄様と……ユルが……?」


 ユルはそんなこと、一言だって言っていなかった。


「本人が明言したわけじゃないが、どうもそのようだ。ユルにとっては、不愉快な思い出なのかもな」


「不愉快だなんて」


 ククルがふくれっ面になると、カジは苦笑していた。


「おいおい、ククル。ティンだって、万人に好かれるわけじゃないさ。あれで案外、癖のある性格だし、好き嫌いも激しい」


「嘘だあ」


 そう言い募るも、ティンの親友だったカジが言うのだから間違いないのだろうとは、わかっていた。ククルは兄を慕い過ぎる余り、欠点が見えなかったのだ。


(でも、欠点もほとんどなかったと思うんだけどな)


「兄様を嫌う人がおかしいんだ。ユルとかユルとかユルとか」


「……参ったな。火に油を注いじゃったみたいだ」


 カジは呆れて、大きなため息をついていた。


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