第61話 ただ生きる、ただ生きる。

 空に月が浮かび、空き地に再び猫たちが戻ってきた。

 周囲は既にクロがいなくなった後のことを相談し始めていた。


「次はモーか?」

「いや、あいつがなるくらいなら他の奴の方がマシだろう」

「ラーメン屋の爺さんはどうだ?」

「年を取り過ぎているじゃないか」

「じゃあ工場に棲み着いているやつはどうだ?」

「あいつは若すぎるだろう」

「自然と決まるだろうが、クロは良いボスだったな」

「そうだな……」


 その話をあまり聞かないようにしながらうずくまっていたコジロウは、猫たちの中にハチの姿を見つけ、駆け寄った。


「ハチさん、お話があります」

「なんでやんす?」

 空に広がる闇はどこまでも深く、街を包んでいる。

 深く息を吸い込むと、コジロウはひげをぴんと張って告げた。

「僕に行かせてください」

「だから、お前さんはダメだって……」

「お願いします」


 コジロウは自分の考えをハチに伝えた。それは、クロを助け出すための方法であり、いくつかの危険をともなった手段でもあった。


「勝算は?」

「わかりません。でも、できる限りのことはしたいんです」

「ふむ」


 ハチは思案顔でしっぽを振った。

 いつもなら二、三度振られるだけのそのしっぽが、今日は何度も何度も振られた。それでもコジロウは辛抱強くハチの言葉を待った。

 やがて、彼は廃車の屋根にひらりと飛び乗った。


「注目。これよりボス奪還作戦の説明を始めるでやんす」



 コジロウは深く息を吸った。

 暖かく湿った夜だった。星明りの中に花蜜かみつのにおいが混じっている。

 季節の移り変わりが一番はっきりわかるのは、冬から春になる時だ。春の夜というのはどうしてこんなにどろりとしているのだろう。冬の間のかちりとした空気はどこへ行ってしまうのだろう。この闇は、いったい何で満たされているのだろう。


 辺りは本当に静かで、ひげが風を切る音さえ聞こえる。

 コジロウの足がアスファルトを踏む音がひたひたと響き、自動販売機の明かりが道路の上に影を落とした。等間隔の街灯の光をひとつ、またひとつ通り過ぎるたび、今まで出会った猫たちが頭に浮かんだ。


 闇の先に、白黒模様の猫が待っていた。

 彼はこの土地で出会った最初の仲間だ。

「健闘を」

「そちらも」

 しっぽを奮わせてコジロウは応えた。


 小さなアパートの前に立つと、たくさんの息遣いが聞こえた。それだけでコジロウは勇気付けられた。

 車が近付いてきて、また静かに走り去ってゆく。ヘッドライトに照らされて暗闇の中に無数の光がきらめいた。コジロウは、ドロやボロと一緒に渡った川のせせらぎを思い出した。


 もう一度深く息をして、自分自身に言い聞かせる。

 大丈夫。何も恐れることはない。強くなければいけないなんてことはないんだ。たとえ僕たちが弱い存在だとしても、こうして生まれてきたということは、生きることを許されたということだ。


 ただ生きる、ただ生きる。

 そのためだけに。


 幅の狭い階段を一段、また一段と登る。足音を殺すように、細い通路を歩く。

 目的の場所に辿り着き、確認するように見上げる。眼前の壁に小さなボタンがあった。

 ハチに教わったことをひとつひとつゆっくり思い出してゆく。

 ひげがかすかに揺れる。


 静かに呼吸を整えると、コジロウは高く飛び跳ねた。

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