第59話 コジロウ
数時間後、空き地には情報を得た猫たちがちらほらと戻り始めた。
クロの行方は依然として知れず、猫たちは彼の安否についてあれこれと憶測を立てては無責任な噂話をした。
「まさか、あそこかな」
「あそこに入ったら二度と出てこないよ」
「あそこは死のにおいがする」
「誰も近付かないようにしているんだ」
その時、人間の足音が近付いてきて、猫たちはまた四方へと姿を消した。
コジロウが廃車の陰からうかがっていると、見覚えのある女性が現れた。
「トラ、こんばんは」
その声にコジロウはほっと安心した。何度か空き地で姿を見たことのある、美穂という女性だった。
「あら、今日はクロもハチもいないの?」
美穂の言葉に、コジロウはふとひらめいた。
そうだ、この人に言えばボスを助けてくれるかもしれない。
「お願いです、助けてください! ボスが僕のせいで連れて行かれてしまったんです」
コジロウは必死に鳴いた。
声が枯れても喉がつぶれてもかまわなかった。
しかし、美穂には理解する術がなく、そしてコジロウには伝える術がなかった。
今はその溝の深さが絶望的だった。
「そんなに鳴いて、どうしたの?」
彼女はじっとコジロウを見つめた。
伝わったのかと思ったが、違った。
彼女の口から発せられたのは、思いがけない言葉だった。
「ねえ、君――もしかして、コジロウ君?」
言葉の通じない人間がどうやってコジロウの名前を知り得たのかという疑問と同時に、脳裏にたくさんの光景が浮かんでは消えた。
家にもらわれてきた日のこと。
名前をつけてもらったときのこと。
新しい寝床を作ってもらったこと。
食器にカリカリを入れてもらうシャラシャラという音。
少しぬるい水の温度。
たくさん遊んでもらったこと。
兄弟たちが虎の鳴き真似をして驚いたこと。
いたずらもたくさんしたっけ。
人間の真似をして扇風機のスイッチを押してみたら、みんな驚いて目を丸くしていたこと。
ビニール袋のガサガサという音にはいつもワクワクした。
縁側の隙間から落ちて行ったプラモデルのパーツ。
家の中にはいつもいろんな音があった。
畳の上を歩く自分の足音。
青空に洗濯物がはためく音。
お母さんがリズミカルに包丁を動かす音。
ヒアキとヨウジの話し声。
お父さんが新聞をめくる音。
食卓にトンカツが出た時のみんなの歓声。
そうだ、本当はトンカツなんて食べられなくても、家族が喜ぶのを見るだけで嬉しかったじゃないか――。
たまには家を抜け出す日もあったけれど、必ず帰ったこと。
鼠を捕まえて意気揚々と帰ったら大騒ぎになったこと。
それでもお父さんは「さすがはライオンやトラの仲間だね」と笑ったこと。
夏の日に涼しい場所を探して寝転んでいると、ヒアキとヨウジたちも一緒にやってきて涼んだっけ。
冬は暖かい
それ以上に暖かかったのは、兄弟たちの寝ている布団に潜り込むこと。
抱きかかえてもらうのが好きだった。
膝の上で夢見心地になるのも大好きだった。
自分の名前を呼んでくれる声。
なでてくれる優しい手。
家族一人一人が大好きだった。
彼らに名前を呼んでもらうのが、好きだった。
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