第54話(回想) 青い首輪の虎猫
「ああ、いたいた」
そんな声が聞こえて、クロは目を覚ました。
排水溝の入口から、美しい毛並みの虎猫がのぞきこんでいた。青い首輪は、彼が人間に飼われていることを告げていた。
「誰だ」
その問いには答えず、虎猫は言った。
「心配したんだぜ。昨日うちの飼い主が騒いでてさ。自転車で黒猫を
「何の用だ」
つっけんどんに尋ねると、相手は苦笑いをした。
「そう警戒するなって。様子を見に来ただけだ」
まあこれでも喰えよ、と言って彼は排水溝の中に雀をぽとりと落とした。まだ息があるらしく、飛びあがろうとする羽音が排水溝に響く。しかし、翼が折れてもう飛べないのは明らかだった。
「これは?」
「腹を空かせていると思ってな」
「自分で喰えばいいじゃないか」
「俺が喰ってもお前の腹が膨れるわけじゃないんだぜ」
そう言い残すと、用事は済んだとばかりに虎猫は帰って行った。
お節介な奴。それが第一印象だった。
「虎猫か……」
クロは呟いた。自分もあんな毛の色だったらよかったのに、と思った。
それから毎日、虎猫は顔を見せた。
手土産は雀のときもあれば鼠のときもあり、かと思えば口からトカゲのしっぽをはみ出させて「すまん、しくじった」と苦笑いすることもあった。
「狩りが下手なんだな」
クロがそう言うと、虎猫はひげを揺らした。
「お前の怪我が治るのが楽しみだ」
一週間も経つ頃には足の痛みが消え、元通り走れるようになった。
肩慣らしにムクドリを捕まえてみせると、虎猫は心底感心した。
「クロはすごいな」
「その名前で呼ぶな」
むくれてそう言うと、虎猫は不思議そうにまばたきをした。
「なんでさ。俺の名前もトラだし、別にいいだろ」
「その名前で呼ばれるのは嫌いなんだ」
「黒いからクロだろう。何が悪い」
「…………」
相手に問われたことは、まさに自分自身へ問い続けてきたことだった。
大きなあくびをひとつして、トラはのんびりと言った。
「そう気にするなよ。お前の毛が黒いのも、俺が虎猫なのも、すべての物事は単なる事象なんだぜ。つまり、天気と同じさ」
「天気?」
「ああ、そうだ。天気だ」
クロの脳裏に浮かんだのは、太陽の光を受け、月の光を浴び、毛の色が変わらないかと願っている自分だった。
「晴れたり雨が降ったりすることと、俺の毛の色と何か関係があるっていうのか?」
トラはひげを揺らし、日向にくるりと丸まった。
「日によって、晴れだったり雨だったり、時には雷が鳴ったり雪が降ったりもするが、俺らはそれをありのまま受け止めるしかないのさ。怒って文句を言ってみたり嘆き悲しんでみたところで、雨は止んだりしないし、どんなに太陽を望んでいても夕方になりゃ日は暮れてまた次の朝には登ってくる。そこにいちいち俺たちの希望を反映させる余地はないし、抗おうとしても無駄なことだと、俺は思うぜ」
「…………」
クロはしっぽを右へ振り、左へ振って考えた。
望んでもどうにもならないこともある。それならば、ありのままを受け止め、晴れの日だろうが雨の日だろうが、毛の色が黒だろうが、その中を生きていくしかない。
トラの言っていることはそういうことだろうか。
もし彼が自分と同じ黒猫だったら、もっとうまく生きるのだろうなとクロは思った。
クロの怪我が治っても、トラはちょくちょく遊びにやってきた。
ある日、トラはいい場所があるんだぜと言ってクロを住宅街へ連れて行った。道の左右に肉屋と魚屋が並んでいて、人間の声がやたらうるさい。
店先に立っていた男たちは、クロを見るなり言った。
「おっと黒猫か。黒くて強そうだからクロゲだな」
「おや、黒猫か。黒くて大きいからクロダイだな」
背後では「真似するなこの野郎!」という怒号が飛び交っていたが、もはやクロの耳には入らなかった。
黒猫だ、黒猫だと言わたことが気になり、クロは二人が用意した食べ物を一瞥することもなく駆け出していた。
アジをくわえたトラが慌てて追いかけてくる。
「おいおいクロ、どうしたんだ」
彼の首についている青い首輪を見て、クロは呻いた。
「お前、
「それも含めて、お前自身さ」
アジをのんびり食べながら、トラは言った。
「お前に俺の何がわかる」
「まだ何もわからないなあ。だから、また話そうぜ」
トラが小さなくしゃみをした。
「風邪をひいたのか?」
「昨日は寒かったからな。クロは丈夫だな」
「
クロはかすかにひげを揺らした。
もう「クロと呼ぶな」と言うつもりはなかった。
「また明日な」
「ああ」
そう言ったのに、トラは来なかった。
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