第53話(回想) 転々と
夜が明けて、世界に光が差した。
ランドセルを背負った少年に連れ帰られ、クロは彼の家で飼われることになった。
この少年もまた彼をクロと呼んだのは、必然というよりも運命の皮肉だったのかもしれない。
少年の家には、以前いた場所のような暖かさがなかった。ほとんど日が差さず、じめじめしていて、いつも隙間風が吹いていた。食事は口に合わないものが多く、のどが渇いても水が用意されていないことも多かった。クロはすぐに体調を崩し、それを見た少年の家族は「だから猫なんて」「捨ててきなさい」などと言った。
少年がクロを川辺に戻すことはなかったが、そのかわり人間の家をたらいまわしにされる生活が始まった。そうなってしまった理由は、家族にアレルギーがあったとか、先住猫との相性だったり、急な引っ越しや経済的な負担などさまざまだった。中には親の承諾を得ずにクロを連れ帰ってしまった子供もいて、「黒猫は不吉だから」と親に言われてクロを手放したこともあった。それは単なる口実でしかなかったのだが、クロがそれを理解できるはずもなかった。
運や巡り合わせが悪かったと言えばそれまでの話だった。
だが、それだけで納得できるほど簡単なことでもなかった。
たらい回しにされてクロが連れて行かれた何軒目かの家には、二匹の先住猫がいた。
「やあ、クロ」
「よろしく、クロ」
何軒もの家を転々としているわりには律儀に受け継がれてきたその名前を、二匹は気さくに呼んだ。
「その呼ばれ方は嫌いだ」
クロはいらいらと牙をむく。
「でも君、クロって名前じゃないか」
「肉球まで黒い君にはぴったりだよ」
どこへ行ってもクロと呼ばれることにクロは苛立ちすら覚え始めていた。
「そもそも『クロ』とはどういう意味なんだ?」
尋ねると、二匹は顔を見合わせ、そして答えた。
「色だよ。カラスの羽や夜空とか」
「つまり、君のその毛の色のことだよ」
「あんたの毛もそうか?」
クロがそう尋ねると、先住猫のうちの一匹はつんとすまして言った。
「俺は違うよ。ロシアンブルーだからね。人気のある種類なんだ」
「人気?」
「人間に好まれるってこと」
クロは衝撃を受けた。人間は猫が嫌いなのだとばかり思っていたし、人間に好まれる猫がいることが信じられなかった。
一緒にいた猫が羨望のまなざしで言う。
「君の毛色は本当にかっこいいよなぁ」
「君だって大切にされているじゃないか。ご主人は君のブラッシングを欠かさないだろう」
ロシアンブルーにそう言われ、もう一匹の猫――ラグドールはうっとりと目を細めた。
「まあねえ。豊かな毛が僕の取り柄だから」
二匹の様子はいかにも人間に取り入っているみたいで、クロはめまいがした。
「『人気』になればいいのか? どうやったら『人気』になれる?」
すがる思いでそう尋ねるが、二匹は曖昧に顔を見合わせるばかりだった。
「さあ、それは人間が決めることだから……」
「もちろん、僕たちだって相手によって態度は変えるよ。好きな人間もいれば嫌いな人間もいるさ。だからお互い様じゃない? きっと、相性の問題だよ」
クロは小さく呻いた。
相性? 冗談じゃない。生きているだけで辛いというこの苦しみを、そんな簡単な言葉で片付けられてたまるか。
「では、クロネコハイラナイとはどういう意味だ?」
先住猫たちは訝しげな表情をした。
「えっ、なんだいそれ?」
「誰に言われたの?」
問われるままクロは答えた。
生まれて間もない頃、兄弟たちが次々とどこかへ連れて行かれる中で自分だけが残ってしまったこと。その頃によく耳にした「クロネコハイラナイ」という言葉。最後は飼い主もその言葉を言い、クロを川辺へ置き去りにしたこと。
その後、何軒もの家を転々とし、人間たちから同じような言葉を言われたこと。
「みんなが俺にそれを言う。知っているなら教えてくれ、いったいどんな意味なんだ?」
すると二匹は気まずそうに顔を見合わせた。
「そっか。君、黒猫だものねえ」
「苦労してきたね。大変だったでしょう」
クロは重ねて問う。
「毛の色が黒だと、何かいけないのか?」
「不吉だ、とか縁起が悪い、とか言われるんだよ」
「人間たちの勝手な考え方だけどね」
クロは愕然とした。
猫たちでさえ「黒猫は嫌われる」ということを認めているようなものだった。
うなだれてその場から遠ざかると、二匹のひそひそ声が聞こえてきた。
「彼とは遊ばない方がいいのかな。飼い主もなんで黒猫なんかをもらったのかな」
「そうだねえ。悪い奴じゃないんだけどなあ。なんで黒猫だといけないんだろう?」
次の日、クロは飼い主の隙を見て脱走した。
そして、それが人間と過ごした最後の日となった。
それ以来、クロは人間を嫌うようになり、
太陽の光を浴びながらまどろんで、目が覚めると白猫になっていたらいいのに。
何度となくそんなことを考えた。あるいは、冴え冴えした月の光が少しずつ自分の体から色を奪ってくれないかと願ったこともあった。けれど、何度目を覚ましても自分はどうしようもないくらい黒猫だった。それならばいっそ、闇に溶けて消えてしまいたかった。しかし、その願いさえも叶えられることはなかった。
夜の坂道をとぼとぼと歩いていると、遠くで光が揺らめいた。なんだろう、と足を止めると、それは恐ろしいほどのスピードでこちらへ近付いてきた。あっ、と思った時にはもう遅かった。光が眼前に迫り、足に重い痛みを感じた。叫び声が闇を引き裂いた。
ガシャン! と高い音が響き、人間の気配が駆け寄る。
全身の毛が逆立った。
近くの排水溝に逃げ込み、じっと身をひそめる。心の奥底から恐怖心が流れ出した。
人間はしばらく近くをうろついていたようだったが、やがてその気配も遠ざかっていった。皮肉なことに、黒い毛が闇に溶け込んだおかげで見つからずに済んだらしい。
この黒は逃げるための色なのか? 逃げた方が賢いのか? 俺は逃げるべきなのか。
そんな考えが頭をよぎる。
こそこそ逃げるように暮らさなければならないのか?
何も悪い事はしていないのに?どうして俺がこんな目に遭うんだ。俺が人間に何かしたか? こんな姿で生まれてきた俺が悪いのか?
もう放っておいてくれ。
俺はただ、普通に生きたいだけなんだ。飯を喰って日向ぼっこをしてぐっすり眠って、ただそれだけの毎日で充分だ。それ以上は求めないのに。
ただ普通に生きたい、それだけなんだ。
ひかれた足の感覚がなくなってきて、クロは気を失った。
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