第九章 クロネコハイラナイ

第52話(回想) 呪縛の言葉

 彼の生まれた場所は、とても優しかった。

 あたたかくて、ふわふわしていて、いいにおいがした。


 まだ目はよく見えなかったが、もそもそと這えば柔らかな壁につきあたり、そこにある突起を口に含めばミルクをたらふく飲むことができた。そうしてお腹いっぱいになったらやがて気分がとろりとしてきて、優しい夢を見る。

 そんな日がずっと続くのだと思っていた。


 少しずつ目が見えるようになってきて、おぼろげながら周囲の輪郭がふちどられ始めた。

 足元は真っ白でふわふわしていて、彼のまわりには彼と似たようなものがたくさんいた。みんなやわらかくてあたたかくて、高い声で鳴いていた。そして、同じ場所にはとても大きい者がいた。それはみんなを舐めたり集めたりと忙しそうだったけれど、お腹が空いたと鳴けばいつでもミルクをくれた。


 一日ごとに彼の世界は色付いてゆき、歩ける範囲も広がっていった。食事はミルクから別のものに変わり、かけっこやかくれんぼや取っ組み合いを覚えた。


 その頃から、いろいろな人間が家を訪れるようになった。

 人間は兄弟たちを交互に抱き上げ、その中の一匹は箱に戻されることなく、どこかへ連れて行かれた。

 そんなことが何度か続き、たくさんいた兄弟たちは一匹、また一匹と減っていった。みんな、このぬくもりから離れてどこへ行ってしまったのだろう。彼はいつもそればかりを考えた。


 最初の兄弟がいなくなってから十回目の夜が過ぎた頃、残ったのは母猫と彼だけになった。人間たちも来なくなり、飼い主はこちらを見てため息をつくようになった。

 その頃から、彼は『クロ』と呼ばれるようになった。



 ある日、飼い主は乱暴に電話を切るとクロを小突いた。

「もう! 黒猫はいらない、黒猫はいらない、みんなそればっかり!」


 クロネコハイラナイとはなんだろう、と彼は考えた。

 最近その言葉をよく聞く気がする。兄弟を連れて行った人間のうち何人かがそれを口にしていたし、飼い主もその言葉を口にした。そして、それは何だか嫌な響きを持っていた。


「私はなんにも悪くないのに、面倒ばっかりかけて! 私がどれだけ苦労したと思ってるの? 全部あんたが黒いのがいけないんだからね」

 眉間にしわをよせ、飼い主はそうまくしたてた。言葉の意味はわからなかったが、自分が飼い主を怒らせてしまったことだけは理解できた。最初の頃に向けてくれていた優しいまなざしは、もうどこにもなかった。


 その夜、クロは初めて外の世界を見た。

 月の光が夜の町を照らしていた。暗闇の中に川が流れていて、せせらぎが耳をくすぐる。秋の澄んだ空気がまとわりつき、体がぶるりと震えた。


 川辺の草地の上にクロを置くと、飼い主は笑った。

「がんばって逞しく生きてね。まあ、残り物には福があるとか言うし、大丈夫でしょ!」

 そう言って彼女はクロの方を見ることもなく歩き出した。


 遠くなり始めた背中を、クロは慌てて追いかけた。

「どこに行くの?」

 それに気付いた彼女は「うひっ」と悲鳴を上げ、後ずさりをしながら叫んだ。

「ついでこないでよ! みんながいらない、いらないって言っている猫をどうして私が飼わなきゃいけないの? 私だって、――――」



 クロネコハイラナイ。



 クロは呆然と立ちすくんだ。

 何度も聞かされたその言葉が、また飼い主の口から出てきた。

 草が風に揺れて彼の視界を遮り、土のざらつきに足が痛む。

 飼い主の足音は遠ざかり、やがて川のせせらぎにかき消された。

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