第30話(回想) 僕が猫だから
ヒグラシの声が辺りに響く頃、再び万里江がやって来た。
「終わったよ。ごめんね……」
彼女は涙ぐんでいたが、そんなことはどうでもよかった。
「近寄るな!」
ハチは全身の毛を逆立てて万里江を威嚇した。
「……お願いだから、そんなに怒らないでよ」
疲れ切った顔で、万里江が呟いた。
「今すぐここから出せ!」
ハチは全身の毛を逆立ててうなったが、万里江は歪んだ笑顔を無理に作り、言葉を続ける。
「志保ちゃんのお母さん、再婚するってさ……。だから、別の場所に引っ越しするの。寂しくなるのは私も一緒だよ。でも、祝ってあげてよ……お願い……」
その言葉の意味が、ハチにはよくわからなかった。
「志保に会わせろ! 早くここから出せ!」
ハチがなおも威嚇すると、万里江は諦めたように立ち上がり、ため息交じりに見下ろした。
「……猫にはわからないか」
あきらめたように涙をぬぐい、万里江はそっとケージを持ち上げた。
「なにをするんだ!」
ハチは暴れた。
ケージに全身をぶつけ、爪や牙で金属の柵を破壊しようとした。力の限り暴れたが、今となってはそんなことをしても仕方がないような気がした。
ふわりと持ち上げられる感覚がして、来た時とは違ってずいぶんゆっくりと運ばれていくのがわかった。
そして、ケージから出された時にはもうアパートの前だった。
ハチは万里江に対して唸るように牙をむき出したが、彼女はどこか上の空で「ケージ、返しに行かなくちゃ……」と呟いただけだった。
ハチは慌てて志保の住む部屋の前に駆け寄った。
扉の前に見慣れた猫がいた。
「師匠!」
声をかけると彼はゆっくりと振り向いた。
「今までどこに行っていた?」
「マリエに捕まった」
ハチはすべてをありのままに話した。
すべてを聞き終ったあとで、ぽん吉は呟くように言った。
「……遅かったな。志保はここを出て行ったぜ」
ハチは目の前が暗くなった。
「え?」
「ヒッコシさ」
その言葉の響きに嫌なものを感じて、ハチは聞き返した。
「……ヒッコシって、何?」
「猫では行けないほど遠くへ行ってしまうことさ」
ハチは扉の前に駆け寄った。
そして、これまでの中で一番大きい声で鳴いた。
「シホ! 会いに来たよ、シホ!」
志保が泣いていた理由がようやくわかったが、すでに遅すぎた。
涙を流せないかわりに、ハチは悲しい鳴き声を上げた。
志保がもうそこにはいないとわかると、ハチはぽん吉を振り返った。
「……師匠。僕は志保を探しに行く」
今にも走り出そうと前足を踏み出したそのとき、ぽん吉がそれを止めた。
「やめときな」
「どうして!」
「わかるだろ。引っ越し先でお前さんが邪魔になるから連れて行かなかったのさ」
ぽん吉の言葉に、ハチは背中の毛を逆立てる。
「違う! 万里江が僕を隠したからだ! いつもみたいに一緒にいたら、志保は僕を連れて行ってくれたはずだ!」
ハチは、これまでの志保との記憶を思い出していた。
志保はいろいろな場所にハチを連れて行ってくれた。これからもきっとそれは変わらないはずだ。
しかし、ポン吉は言う。
「志保がお前を連れて行くって言い出さないように、万里江がお前を隠したんだろう。おおかた志保の母親から頼まれて断れなかったんだろうな。万里江らしい」
「そんな……」
丸一日部屋の前で待ってみても、志保は戻って来なかった。
ハチは震える声で尋ねた。
「僕が猫だから?」
「そうさなあ……」
ずっと側で付き合ってくれたぽん吉は、珍しく言葉を濁し、それ以上は何も言わなかった。
「猫だから、いけないの?」
重ねて問うと、彼はようやく重い口を開いた。
「猫だろうが人間だろうが、一緒に過ごすことはできるさ。けどなあ、人間が猫と過ごすのと、人間が人間と過ごすのとでは大きく違うのさ。そのふたつを比べられちまったら、諦めるしかねえよ」
「そんな……」
ハチは絶望的な思いがした。
自我を得た時には、自分はすでに「猫」だった。
それは揺るがない事実として存在していたし、そのことを疑問に思うことすらなかった。きっと兄弟たちだって同じに違いない。
水と食べ物、それに快適な寝床さえあれば不満はなく、自分が猫であるという事実すらどうでもよいことだった。
なのに、それがいけなかったというのか。
猫が、猫であることが。
当たり前過ぎるほど当たり前として生まれる前からそこに在った事実が、そんなに悪い事だったというのか。
「そんなことない!」
ハチは叫んだ。
「ならどうしてシホはお前さんのことを置き去りにした? もうここには戻って来ないぞ」
「嘘だ!」
ハチはぽん吉にとびかかったが、彼はハチの行動を見越していたかのようにあっさりとかわした。
「お前さんも俺も、ここへ来る理由はなくなった。俺もマリエには愛想が尽きたよ。もう会うこともないだろう。……じゃあな、ハチ」
そう言い残すと、ぽん吉はその場を去って行った。
彼の姿を見たのは、それが最後になった。
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