第29話(回想) 毛布と檻
それから毎日、ハチは志保のところへ足を運んだ。
チャイムを鳴らすと彼女はいつも出迎えてくれたが、浮かない表情ばかりだった。
彼女が泣いたあの日から、ハチは一度も志保の笑顔を見ていない。
「シホ、どうしたのかなあ……」
ハチはそればかりが気になったが、この頃になるとまた万里江の部屋に男が出入りするようになり、ぽん吉に相談することもできなかった。
ある日、いつものようにアパートの前に行くと、万里江の姿があった。
この暑いのに彼女は毛布を抱えていて、なんだか奇妙な感じがした。
しかし、気になることはそれだけではなかった。
「よっ、チビ君。今日もご苦労さま!」
彼女はそう言うと、皿に乗った猫缶を差し出してきた。
「マリエ、これは師匠のじゃないの?」
ハチが尋ねると、万里江は小さく笑った。
「今日はチビ君が食べな」
「……?」
腑に落ちなかったが、目の前に差し出された猫缶のおいしそうなにおいは魅力的だった。
ハチは心ゆくまでそのにおいを楽しんだ後、それでもやはりぽん吉が現れないので、そっと口を付けた。
その途端、上から何かが覆いかぶさり、視界が真っ暗になった。
「恐い!」
ハチは咄嗟に逃げ出そうとしたが、体中を軟らかい何かに包まれて身動きができなかった。
次の瞬間、体を持ち上げられてどこかへ運ばれる感覚がした。
そして、万里江のミュールが鋭く地面を蹴る音。
「ごめんねチビ君、ごめんね……。猫のチビ君は知らないかもしれないけれど、人間って弱いんだよ、一人じゃ生きていけないんだよ……」
すすり泣くような万里江の声が聞こえたが、それがどういう意味なのかはよくわからなかった。
「ここから出して!」
ハチは力の限り手足を動かしたが、暴れれば暴れるほど強く押さえつけられた。
真っ暗な中で視界が激しく揺れ、頭がくらくらした。
ようやく止まったかと思うと、人間の声が聞こえた。
「猫、持ってきたよ。お願いね」
そう言ったのは息を切らせた万里江で、
「ははっ、お前、猫を預かるって話マジだったのかよ」
と笑ったのは、最近よくアパートに出入りしている男だった。
急に視界が明るくなり、ハチは目を細めた。
逃げ出そうと足に力を込めたものの、周囲が柵に囲まれていることに気が付いた。そこは狭いケージの中だった。逃げ出すことはおろか万里江の近くに駆け寄ることすらできなかった。
「マリエ、出して、マリエ!」
ハチは叫んだが、万里江は一度もハチの方を見ようとしなかった。
それが故意であることも本意でないこともハチにはわかった。
そして、いくら期待しても無駄だということも。
「一日だけだからな」
「わかってる」
男と短いやり取りをして、万里江は走るように去って行った。
「……マリエ、マリエ、マリエ、………………、助けて!」
ハチはありったけの力を振り絞って叫んだが、もう万里江に声が届いているとは思えなかった。
次の瞬間、ケージが激しく揺れ、耳障りな金属音が響いた。
「あんまり騒ぐと殺すぞ」
男はそう言い残すとその場から去って行った。
シャッターが閉められ、倉庫の中はほとんど光が差さない暗闇になった。
ハチはぼんやりと考えた。
万里江はどういうつもりなのか。
自分が何をしたというのか。
いったいなぜこんな目に遭わなければならないのか。
志保は、どうしているだろうか。
今日は悲しんでいないだろうか。泣いていないだろうか。誰かが彼女の側にいてやっているだろうか。彼女は今、笑っているだろうか。
あたりを見回すにも、毛布ごと押し込まれたケージの中では、体の向きを変えることすら難しかった。
「どうして……」
ハチは呟いた。
いつだったかペットショップの前を通りかかった時に、他の犬や猫がこんな入れ物に入れられているのを見たことがある。
不思議に思って、ハチはケージの中の相手に尋ねたのだ。
「君は、どうしてそんなところに入っているの?」
相手はこう言った。
「君は、どうして外にいるの?」
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