第28話(回想) 泣かないで

 ハチは志保と会う機会が増えたが、その一方で万里江の生活を垣間見る機会も多くなった。

 万里江は男と別れたらしく、また一人ぼっちになった。

 彼女の部屋の前に立つと、時折泣いているような声が聞こえた。


 それが当然だとハチは思った。

 ぽん吉にひどい仕打ちをしたのは彼女なのだから、彼女もまたひどい目に遭えばいいと思った。

 それなのに、たまにハチに会うとぽん吉は尋ねるのだった。


「よう、チビ。マリエはどうしてる?」

「たまに泣いてるよ。男が来なくなったみたい」

 ハチは冷たくそう言い放った。


 てっきりぽん吉は喜んでくれると思った。だが、彼は鼻にしわを寄せただけだった。

「そうか。顔を出してやらにゃな」

「どうして?」

「今、マリエを慰めてやれるのは俺だけだからな」

「だって、師匠」

 ハチはなおも言葉を続けようとしたが、ぽん吉がそれを遮った。


「服に靴に家に車……人間って生き物はいろんなものに囲まれて暮らしてるだろう。それは、いろいろな道具に囲まれて暮らさないと生きていけないほど弱いからさ。奴らにとっては全部が必要なものなのさ」


 聞いているうちにハチは悲しくなってきて尋ねた。

「猫も……必要だから飼うの?」

 ぽん吉はこともなげに肯定をした。

「ああ、そうさ」


 もしかしたら、そこが人間と猫の違いなんじゃないだろうか。

 ハチはそんなことを思った。



 アパートのチャイムを押すと、万里江はすぐに出てきた。

 また泣いていたのか、その目は赤く腫れぼったい。

「ぽん吉、来てくれたんだ……。ごめんね、あたし自分勝手で、ごめんね…………」

「いいってことよ」


 ぽん吉は万里江の足に頭を擦りつけた。

 その途端、彼女はぽん吉を抱きかかえてさらに激しく泣いた。


「ぽん吉~。あたし失恋しちゃったよぅ……」

「もう泣くなよ、マリエ。俺がずっとそばにいてやるから」

 そう言ったのは万里江にも伝わったようだった。

 彼女は安心したような表情になり、やがて泣き止んだ。


 その様子を見ていたハチは不可解でならなかった。

 人間はたくさんの言葉を交換し合っている。それなのに分かり合えないなんてすごく変だ。

 言葉にしなくたって伝わることはたくさんあるのに。


 あとでぽん吉にそう話したら、彼はこう言った。

「人間の言葉は難しすぎるのさ。だから、人間は自分らの言葉を覚えるだけで精一杯で、猫の言葉なんかわかっちゃいないのさ」

「僕、シホの言葉はまだ全部わからないけど、シホの気持ちはわかるよ」

「それでいいのさ」

 と、ぽん吉は笑った。

 そして、悲しそうにこう言った。

「もし俺が人間になれたら、マリエにこんな哀しい思いはさせないんだがな」


 その言葉を聞いてハチは一瞬どきりとした。

 ――人間に、なる? もし自分が人間になったらどんな感じなんだろう?


 ひとたびそう思ってしまえば、思考はどんどん溢れてきた。志保ともっとたくさん遊んで、一緒に木に登って、今よりも遠い所へでかけて、たくさんおしゃべりをして……。

 そんな妄想とも空想とも幻想ともつかぬものが頭の中をぐるぐると回った。



 志保の気持ちがわかると言ったハチだったが、それだけでは解決できないこともあった。

 その日、志保は激しく泣いた。


「…………私、やだよ…………。遠くに…………、もう…………」

 ハチはすっかり困ってひげを垂らした。

 志保がなんと言ったのかよく聞き取れなかったが、でも悲しんでいることはわかった。


「シホ、泣かないで。僕はシホのこと、大好きだよ」

 何度も何度もそう言った。

 それでも彼女は泣くばかりだ。

 そうなるとハチにできることは、ぽん吉が万里江にしたように側にいることだけだった。


「人間になれたら……シホの言っていること、もっとわかるのに」

 そう思った瞬間、ハチはまたドキリとした。

 

 人間になる? そんなことが……、いや、できるわけがない。

 彼は慌てて自分の考えを打ち消した。

 それでも、その妄想はいつまでもいつまでも頭の隅にしつこくこびりついて残っていた。

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