第27話(回想) 志保と万里江の変化

 それから、いくつかの夏が通り過ぎて行った。

 夏が来ると相変わらずアスファルトは肉球を焼き、蝉は騒々しかった。


「最近ちょくちょく会うな」

 ぽん吉にそう言われてハチは得意げに説明をした。

「鍵の開け方を覚えたんだ」

「そりゃいい」


 この頃になると、ハチは人間の言葉もだいぶ覚えていた。

 それでもまだまだ、わからないことはたくさんあった。


「ねえ師匠。最近シホが木に登らなくなったんだ。どうしてかなあ」

 ハチがそう尋ねると、ぽん吉はこともなげに答えた。

「そりゃ、女になったってことさ」

「シホはもともと女の子だよ」

 そう言って首をかしげると、ぽん吉は笑った。

「お前さんにゃ、ちと早かったな」

「わかんないよ。師匠、ちゃんと説明して」

 ハチが注文をつけると、ぽん吉はやれやれとため息をついた。


「お前さんは少しくらい高い所から落ちても平気だがな、シホは高い所から落ちたら怪我をするんだ」

「どうして?」

「どうしてって、そりゃシホは人間だからな」

「またそれだ……」

 ハチはむくれた。

 ぽん吉は、二言目には「お前さんは猫だから」「シホは人間だから」と言う。その区別がハチには気に入らなかった。


「お前さんもシホが怪我したら嫌だろう?」

「そうだけど……僕、せっかく木登りできるようになったのに」

 ハチはむくれた顔のまま、がっかりしてひげをだらりと垂らした。



 女になるといえば、万里江にも変化があった。

 いつの頃からか彼女のアパートには人間の男が出入りするようになり、その頃から彼女はぽん吉にかまわなくなっていったのである。

 それというのも、相手の男が猫を嫌っているらしかった。


 ある日、いつものように餌をねだりにきたぽん吉を見て、男は鼻で笑った。

「こんなブサイク放っとけって。かまってるとお前までブサイクになるぞ」

「えー、ひどいなあ」

 万里江は笑ったが、ハチの目には作り笑いにしか見えなかった。

 それなのに、男はまったくそのことに気付く様子がない。


 目の前で扉を閉められ、ハチは部屋の中にいるであろう男を睨み付けるように言った。

「マリエはあんな奴のどこがいいんだろう」

 ぽん吉は諦めたようにあくびをひとつした。

「ああやって自分を偽ってまで一緒にいたいのだろうよ。まあ、どのみち俺はお払い箱さ。元気でな、チビ」

「ハチって呼んでよ」

 いつもと同じことを言いながら、ハチはぽん吉の後を追いかける。

 この頃になるとハチの体はすっかり大きくなり、木の上だって塀の上だって簡単に上ることができた。フェンスを越えるときは相変わらず下をくぐっていたが、登れと言われればきっと登れただろう。


 並んで歩きながら、ぽん吉はぼやいた。

「また熱いアスファルトの上を歩かなきゃならねえじゃねえか。まったく、人間どもはどうして土を減らしたがるかね。足が焼けちまうよ」

「えっ? これは人間がやっているの?」

「ああ、そうさ。ろくなことしねえ」

「そんなひどいこと言わないでよ。シホだって人間なのに」


 ハチが睨むと、ぽん吉は「わかった、わかった」となだめるように言った。

 そして、いつものように人間について教えてくれるのだった。


「奴らが乗っている『車』な。あれが走るのに、こういった道が必要なんだよ」

「あれは中に人間が入ってるの?」

「そうさ。あれが動いている時にぶつかると死ぬからな。気をつけろよ」

「シヌって何?」

「二度と会えなくなるってことだ」

「シホとも?」

「そうさな」


 ハチは恐れおののいた。

 ――車はものすごい速さで走っているから、きっとあれに当たると遠くまで飛ばされてしまうんだ。戻って来れないくらい遠い遠い場所に。――


「あ~あ、今日からどうやって生きようかね。飯をもらえる場所を探さにゃならん。しばしの間さらばだ」

 そう言って去ってゆくぽん吉を、ハチはいつまでも見送った。



 ある日、家の中に変化があった。

 猫たちは一室に閉じ込められ、家の中を自由に歩けなくなったのだ。窓は家具で塞がれ、陽の光さえも入らないようになった。

 母猫からも兄弟猫たちからも「お前のせいだ」と責められた。


 なんでみんな怒るのだろう、とハチは思った。

 彼らがどんなに移動をしたところで、どうせこの家の中であることは変わりがない。外の世界を知ってしまえば、一軒の家の中だろうがひとつの部屋の中だろうが窮屈であることに変わりはないのに。


 ハチはドアノブに飛びつくとすぐ隣の部屋へ行き、頭部で窓の鍵を押し上げて開錠し、前足で窓のサッシと網戸を開け、窮屈な家から抜け出した。

 外で生活していける自信はあった。暮らしに必要な知識は全部ぽん吉から学んでいたし、寝床にも食べ物にも困らないだろう。


 ハチを止める者は、もう誰もいなかった。

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