第26話(回想) 志保と過ごした日々

 ハチという名前は、志保がつけてくれたものだ。

 出会ってから数日経った頃、彼女はチビ猫にこう言った。


「お母さんが言っていたの。あなたはハチワレっていう模様なんだって。だから、今日からあなたのことをハチって呼んでもいい?」

 チビ猫はまだ人間の言葉がわからなかったが、彼女が何度か「ハチ」と呼んだので、名前をつけてくれたのだとわかった。


 家にいる時は別の名前で呼ばれていたが、古い名前はどうでもよくなった。

 飼い主や母猫や兄弟猫たちは相変わらず古い名前で彼を呼んだが、チビ猫がそれに反応しなくなったら、そのうち誰も彼のことを呼ばなくなった。

 やがてチビ猫も、古い名前は忘れてしまった。


 こうして彼は「ハチ」になった。


 そんな中で、ぽん吉だけがいつまでも彼のことを「チビ」と呼び続けた。

「おいチビ、聞いてるか?」

 そう言われるたびにハチはむくれた。

「師匠、ハチって呼んでってば。せっかく志保が名前をくれたのに」

 すると彼はいつも、何を生意気な、と笑うのだった。

「チビなんざ、チビで充分だ」


 そんなぽん吉だったが、彼はハチにいろいろなことを教えてくれた。

 窓のアルミサッシの開け方を教えてくれたのも彼で、この知識はとても役に立った。

 ハチが網戸を開けるようになってしばらく経つと、家の猫たちは窓の閉まっている部屋にしか入れないようになった。

 それでも志保に会いに来ることができたのは、その窓を開ける方法を教えてくれたぽん吉のおかげだ。


 彼は人間についてもさまざまなことを教えてくれた。

 その中のひとつで最も印象深かったのが、自分たちは「猫」で、志保や万里江は「人間」だということだ。

 何が違うのかと尋ねると、「それを一言で説明するのはちと難しいな」と言われた。


 それからというもの、ハチは「猫」と「人間」の違いについてばかり考えた。

 志保は猫じゃない。

 万里江も猫じゃない。

 ハチにはそれが不思議でならなかった。


 確かに思い当たることはたくさんあった。志保はいつもうまく木に登るが、ハチは登れなかった。夜に遊びに来ると、志保はいつもいなかった(ぽん吉曰く、「寝ているから」とのことだった)。志保の食べているものをハチも欲しがると、「これはハチの体には悪いんだって」と言われ、別の食べ物をくれた。

 ハチは少しずつ志保の言葉がわかるようになっていったが、志保はハチの言葉をあまりわからないようだった。


 それでも、ハチは志保と一緒にいるだけで嬉しかった。

 姿形が異なっていても、眠る時間が違っても、同じものを食べられなくても、言葉を通い合わせることができなくても、志保が人間で自分が猫でもかまわなかった。

 自分が相手を大好きで、相手も自分のことを好きでいてくれる、ただそれだけで充分過ぎるほど幸せだった。



 志保とハチはたくさん遊んだ。

 志保はどこに行くにも近道や秘密の抜け道を知っていた。彼女は屋根ほどの高さの土手を登り、高く茂った草をかき分け、薄暗い竹藪を抜け、せせらぐ用水路を飛び越え、時には錆びついたフェンスをよじ登ったりもした。


 フェンスを登るときの彼女はとても器用で、足を掛ける位置を確認したら後はするすると見事に登ってゆき、上に到達するとくるりと向きを変えてすとんと飛び降りる。

 チビ猫も真似しようとしたが、断崖絶壁のごとく立ちはだかるフェンスを垂直に上ることは至難の業に思えた。


 どうしようかとうろうろしていると、フェンスの下に隙間があるのを見つけ、そこからくぐったら志保の笑顔が迎えてくれた。

「ハチはいいなあ。私はそんなに狭い隙間は通れないもの」


 しかし、近道にはさまざまな「おまけ」がつきものだった。

 志保と一緒に水たまりに転んで泥んこになったり、体に草の実をたくさんつけて帰ったこともある。どちらももれなく兄弟猫たちから「汚い、近寄るな」と言われたが、それでもチビ猫はご機嫌だった。


 母猫は我が子の様子に驚き、丁寧に毛づくろいをしてくれた。そのこと自体は嬉しかったのだが、お説教まで付いてきたのには辟易した。

「勝手に出て行ったりするからこうなるの。もう外に出てはいけませんよ」

「でも、楽しかったよ」

「楽しかったじゃありません」

 母猫に強い口調で叱られ、何も悪い事してないのにとハチはむくれた。



 もちろん、その程度で外出を諦めるハチではなかった。

 家の外に出られない日は憂鬱だったし、何日も志保と会えないとなると食事も美味しくなかった。

 何かやり忘れていることがある気がしていつまで経っても寝付けなかった。

 そしてまた窓ガラスに鼻先を押しつける日々が続く。


 それでも、志保の顔を見ればそれまでのもやもやした気持ちが一瞬で吹き飛んだ。

 ある日、志保はハチを田んぼへ連れて行ってくれた。


「ハチ、見てごらん。真っ赤だね」

 そう言って志保は小さなせせらぎの中から何かを掬い上げた。

「これ、なあに?」

 ハチがおそるおそる顔を近付けると、それは威嚇するように前足を振り上げた。

 よく見るとその先端はハサミのようになっていて、今にもハチを挟もうと狙っている。

「なんだこいつ」

 脅しのために背中をつついてみたが、その表面は固くて爪も牙も効かなそうだった。

「だめよ」

 志保は優しくそう言うと、その奇妙な奴を水の中に戻した。


 水流の中にいて苦しくないのかと思ったが、そいつは気持ちよさそうに水草の間を闊歩し始めた。

 後でぽん吉に話すと、「そりゃザリガニだ」と教えてくれた。


 また別の日には、こんなこともあった。

 志保はハチをリュックサックに入れて出かけた。着いた先は「ドーブツエン」という場所らしく、いろんな生き物の臭いがした。


「ハチ、あれは虎だよ。向こうにはライオンもいるね」

 そう言って志保が指した動物は、今までに見たことのあるどんな動物よりも大きかった。

 目が合い、ハチは思わずリュックサックの中に隠れた。

 檻の中にいる彼らの目は、家にいる兄弟たちの退屈そうな眼とよく似ていた。


「両方とも猫の仲間なんだよ」

 志保がそう教えてくれたが、いったいどこが似ているのかと不思議でならなかった。

 虎やライオンなんかと比べると、はさみを振り上げて威嚇をしていたザリガニの方がよほど可愛らしく思えた。

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