第25話(回想) ぽん吉と万里江
真夏のアスファルトは焼けそうなほど熱かった。
歩くたびに肉球を火傷をしそうだし、背中の黒い毛も太陽の光をよく吸収してチリチリと音が出そうだった。
ゆらゆらと立ち昇る蜃気楼がまわりの景色を歪ませる。
こういう時、体が小さいのは便利だ。
側溝、植木、車止めなどが作ったわずかな日陰を拾うように歩いて行く。
そうやって慎重に進んでいるにも関わらず、至近距離で何の前触れもなく蝉が鳴き始めると、びっくりして駆け出してしまうこともあった。
そして後から肉球がひりひりとして後悔するのだ。
そんなことを繰り返し、ようやく目的の建物に着いた。
大きな外壁に近付くと、太陽の光が遮られてひんやりする。足元は土になっており、火照った肉球を冷やしてくれた。
プリムラの花が生えており、なるべく踏まないように気を付けて歩く。
面倒くさいが、そうした方がいいと師匠から教えられたからだ。
足元がむずむずしたので前足をそっとどかしてみたら、黒っぽい虫がころんと丸くなっていた。前足でそっとつつくと、そのままころころと転がってプリムラの葉の茂みに消えていった。
チビ猫は、二番目のドアの前で足を止め、しげしげと見つめた。
炎天下をはるばる歩いてきたのは、ここに棲んでいる大切な友人に会うためだ。
早く出てこないかな、などと思っていると、背後から声がかかった。
「おいおい。呼ばにゃ出て来んだろ」
振り返ると、日陰でのんびりくつろぐ一匹の猫がいた。
顔見知りを見つけて嬉しくなり、チビ猫はとことこと駆け寄った。
「師匠!」
「ようチビ。今日も暑いな」
相手の猫は気だるげにしっぽを振った。
チビ猫が「師匠」と呼んでいるその猫は、人間からは「ぽん吉」と呼ばれており、くすんだ茶色の毛並みに胴も足もしっぽも太いというなかなかに重量感のある容姿をしていた。
彼が寝そべっている場所は風通しの良いコンクリートの上で、そこにいる限りは強い日差しも騒々しい蝉の声もまるで無縁の楽園に見えた。
「呼ぶって、どうやるの?」
チビ猫がそう尋ねると、ぽん吉はのそりと起き上がった。
「まあ、見てな」
彼はチビ猫が見つめていた扉の右隣の扉の前に座った。
そうしてじっと上を見据え、一呼吸置いた後、高く飛び跳ねた。
次の瞬間、建物の中で「キンコーン」という音が響いた。それは人間が人間を呼び出すための合図だということを、ハチは知っていた。
「すごいすごい! 今のどうやったの?」
「壁についている、あの小さなボタンを押すのさ」
ぽん吉は造作もないという様子で言ってのける。
「僕もやってみる!」
「おう。頑張れよ」
チビ猫はひとつ隣のボタンの下に立ち、ぴょんぴょんと飛び跳ねてみた。
しかしボタンは目測よりもはるかに高い位置にあり、半分ほどの高さまで跳び上がるのがやっとだ。
「うー、うぅー、届かないー」
「はは。お前さんにゃあ、まだ早いかもな」
そんなことを話していると、部屋の扉が開き、若い人間の女性が顔を出した。
彼女はドアの顔なじみを見つけるなり、満面の笑みを浮かべた。
「あら、ぽん吉! いつもご苦労さん」
この女性は
「ちょっと待ってて、美味しい缶詰があるのよ。……あらやだ、『美味しい』じゃなくて『美味しそうな』よねえ。あたし猫じゃないし」
ひとしきり楽しそうに喋ると、万里江は建物の中に戻って行った。
「ねえ師匠、あのひとは猫じゃないの?」
「そりゃそうさ。マリエは人間だ」
「人間ってなぁに? 猫とどう違うの?」
「ふむ、そうさなあ……」
チビ猫とぽん吉がそんな会話をしていると、万里江は上機嫌な表情で戻ってきた。
彼女が手にしている皿の上には、やわらかく煮込んだ肉をほぐしたものが乗せられている。
「お、ご馳走じゃねぇか。嬉しいねえ」
ぽん吉も上機嫌で舌なめずりをする。
「奮発しちゃった。えへへへへ、嬉しい?」
ぽん吉は満足そうに「うにゃあ」と応え、皿に盛られたものを食べ始めた。
その時、万里江は隣でぴょんぴょん飛び跳ねているチビ猫に気付いた。
「あら、チビ君もいたのか。なになに? 彼女に会いに来たの?」
茶化すように笑うと、彼女は壁のボタンを押した。キンコーンと楽しげな音が響き、建物の中で「はーい」と声が聞こえる。
「志保ちゃん、いる? 彼氏君がお待ちかねだよー」
「はーい!」
元気の良い声と同時に扉が勢いよく開いた。
中から出てきたのは人間の少女だった。チビ猫から見れば大きいが、それでも身長は万里江の半分ほどだ。
「シホ、遊ぼーよ」
チビ猫が少女の足元に頭をこすりつけると、少女は最高の宝物を見つけたような笑顔を浮かべ、大事そうに子猫を抱き上げた。
「ハチ! いらっしゃい」
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