第21話 陽気なラル
ハチと別れてから、随分時間が経った気がした。
ブロック塀の内側にあった木の影が、徐々に道路の方へ伸びてきている。
「ハチさん、遅いな……」
コジロウは自分のしっぽを気まぐれに振り、それを前足で抑えつける
――置いて行かれたのかもしれない。
ふとそんな考えがよぎり、コジロウは慌ててそれを否定した。
しかし、確実に否定できるだけの理由を持っていないことに気が付いた。
「どうしよう、追いかけた方がいいかな……」
少しだけ、と自分自身に言い聞かせ、コジロウはハチが歩いて行った方へ足を向けた。なるべくゆっくりと歩いてみたが、何件かの家を通り過ぎ、とうとう曲がり角まで来てしまった。
「どっちに行ったんだろう……」
立ち止まって辺りを見回すが、ハチの姿は見当たらない。
――まさか、本当に置いて行かれた?
不安がぽっかりと口を開けてコジロウを呑み込もうとしたその時、絶望的なほどの大音量がコジロウを襲った。
耳が裂けるような音に、体は一瞬にして凍りつき、鋭い爪で
かなり時間が経ってから、それが犬の鳴き声だと理解した。
目の前に門扉があり、その向こう側で大きな犬が吠えている。
その目は赤く血走っていて、するどい牙がのぞく口は「お前を食い殺してやる」と言っているようだった。
コジロウは恐怖のあまり、右左どころか上下さえもわからなくなった。まるで深い穴に突き落とされたようなひどい不安感に呑み込まれてゆく。
その時、背後で「ばふっ」という音が響いた。
その途端、今まで狂ったように吠えていた犬は一瞬で大人しくなり、しっぽを丸めてこそこそと隠れた。
「だいじょうぶ?」
そう声をかけられ、誰かが助けてくれたのだとわかった。
「は、はい、ありが……」
声のした方を振り返り、コジロウは唖然とした。
そこにいた者も、また犬だったのだ。
しかし先ほどの犬とはまるで違う優しい目つきをしていた。
体は先ほどの犬よりも一回り大きく、背中までの高さもコジロウの数倍はある。
毛の色はコジロウの黄土色の部分とよく似ていたが、長く艶やかで、風が吹くたびに揺れてきらきら光っているように見えた。
「歩ける? あっちへ移動しよう」
低く聞き取りにくい声だったが、確かに相手はそう言った。
「は、はい……」
言われるがままコジロウは頷き、そっと移動した。
近くに植わっているクスノキの香りが、コジロウのにおいをうまく誤魔化してくれるだろう。
その時、頭上から声がした。
「ラル、猫を助けてあげたのか? 偉いな!」
そう言ったのは人間だった。どうやらこの犬の飼い主らしく、手にリードを握っている。
「わあい、ご主人に褒められた~」
ラルと呼ばれた犬は嬉しそうにしっぽを振った。その勢いはあまりにも強く、犬の尻に扇風機が現れたのかと見紛うほどだった。
「でもお前、外ではそんなに強気なのに、どうしてナナコに対しては弱気なの?」
飼い主がそう言うと、扇風機は一瞬でしっぽに戻った。
心なしかラルの目は潤み、今にも鼻から「きゅーん」という音が聞こえてきそうだ。
ナナコが何者かはわからないが、ラルの様子からするとよほど恐ろしい存在なのだろう。おそらく先ほどの犬など足元にも及ばない脅威に違いない。
そう考え、コジロウは身震いした。
その時、ラルの飼い主がふと顔を上げた。
「おっ。チェスじゃないか。元気?」
その視線の先を見ると、そこには鬼のような形相のハチがいた。
「こらコジロウ! こんなところにいたでやんすか!」
「ハ、ハチさん……」
「うろちょろするなって言ってあった気がするけど、おいらの思い違いでやんすか?」
「ご、ごめんなさい……」
コジロウは慌てて謝ったが、ハチの気が収まる様子はなかった。
「もしお前さんに何かあったら、ボスから大目玉を食うのはおいらでやんす。まあ、そうなった時は、すでにお前さんはゴミ捨て場に捨てられた薄汚いズタボロの毛布みたいになって口もきけないようになっているのかも知れないけれど?」
コジロウはうなだれて耳を伏せた。
先ほども恐ろしい思いをしたが、怒ったハチもそれはそれで恐ろしかった。
しかし同時に、置いて行かれていなかったことにほっとしたのも事実だ。
「ハチ、あまり怒らないであげてよ。彼ね、そこの犬に吠えられて動けなくなっていたんだ。恐い思いをしたばかりなのに、また恐い思いをさせちゃ可哀想だよ」
ラルが横からそう言ってくれる。
ハチはやれやれとこぼした。
「ラル。面倒かけてすまなかったでやんす。こいつ迷い猫で、家を探している最中なんでやんすよ」
「そっかあ、大変なんだね。じゃあ今度、他の犬にも聞いてみるよ」
「頼りにしてるでやんすよ」
ハチが丁寧に頭を下げたので、コジロウもそれにならって頭を下げた。
「よ……よろしくお願いします」
横で三匹の様子を眺めていたラルの飼い主が、にこりと笑った。
「お。犬猫諸君の親睦が深まったかな? じゃあラル、そろそろ行こうか」
飼い主に声をかけられ、ラルは「うん!」と元気よく返事をした。
「じゃあ、もう行くね。またね!」
そう言うと、ラルは陽気な足取りで、主人と一緒に去って行った。
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