第20話 過ぎし日を想う

 いくつか角を曲がれば、先ほどの騒音が嘘のように静かになった。


「あの人たち、仲が悪そうでしたね」

 二人の怒声を思い出し、コジロウはまた耳をたたみそうになった。

「そのおかげで、うまい飯にありつけるでやんす」

 とハチが言う。

 彼が涼しい顔をしていたのは、とびきり美味しいものにありつけると知っていたからだろう。


「そういえば、ミルフィーユ・カツとかサーモンって誰です?」

 コジロウは二人の会話を思い出して尋ねる。

 ハチは苦笑いした。

「さあ? 猫はどこにでもいるでやんすからね」

 彼にしては珍しい表情をするものだ、とコジロウは思った。


「ハチさんでも知らない猫がいるんですね」

「まあね」

 それからハチはふと思いついたように立ち止まった。

「ちょっとここで待ってるでやんすよ」

「えっ、どこへ行くんですか?」

「すぐ戻るでやんす」


 それだけ言うと、彼は人間が別れ際に手を振るようにしっぽを振った。

 その黒い毛先が曲がり角の向こうに消えるまで見送ると、コジロウは途端に心細くなった。


 高架下を抜けてからずっと民家が続いているが、特にこの近辺は古い街並みのようだ。家の中からは昼のテレビ番組の音が聞こえ、遠くからは電車が走る音や車のエンジン音が聞こえてくる。

 かと思えば、木々の間から鳥のさえずりが聞こえたり、風が建物の隙間を通り抜けてゆく音が響いている。静寂と賑やかさが共生しているような不思議な場所だった。


 木造の古びた建物が並び、錆びた新聞受けや色あせたベビーカーが景色の中に溶け込んでいる。

 高い所を見上げると大きな蜘蛛の巣があちらこちらにかかっており、巣の主がのんびりと風に揺られていた。

 地面は苔むしていてじめじめしており、以前いた土地のにおいとどことなく似ている。まだ一日ほどしか離れていないというのに、ふと前の土地が懐かしくなった。


 すぐ近くの家の門柱の奥に、水を張ったかめが置いてあった。喉が渇いたので口を近付けようとしたら、水中で小さな魚が閃いた。

 コジロウは驚いて頭を引っ込める。


 そういえば、あれはどこだったろうか、藻が混じった池に大きな魚がたくさん泳いでいる家があったっけ、と思い出す。

 友達と連れ立って見に行ったことがあり、そのうちの一匹が魚にちょっかいを出そうとして池に落ちたのだ。

「あの時は、大変だったな……」

 コジロウは呟いた。


 池に落ちた猫は「うる」という名前で、彼が池に落ちるや否や大きな魚たちが寄ってたかって彼を食べようとし始めたのだ。

 魚たちが水面で立てる音はまるで土砂降りの雨の音か、あるいは大勢の人間たちが一斉に拍手をするかのようなやかましさだった。


 うるは池のふちに上がることも叫ぶこともできず、もがくばかりで、その体は確実に水の中へと沈んでゆくのがわかった。


「うる! 大丈夫か!」

 仲間のトシという猫が叫んだが、どうすることもできない。

 コジロウもただ見守るばかりだった。


 結局、異変に気付いた家主が外に出てきて、うるを網で掬い上げて事無きを得た。

 コジロウたちは敷地の外につまみ出され、仲間のサキという猫に笑われながら皮肉を言われ、豆太まめたという猫にさんざん心配された後こってり叱られた。

 みんな、コジロウが家をこっそり脱け出すたびに一緒に遊んでくれた仲間たちだった。


 その後、その家の周囲には柵が張り巡らされて入れないようになったらしいが、猫たちにとってもその家は二度と近付きたくない場所になった。

 うるはしばらく風邪をひいたが、一週間も経つとまた元気になった。

 その頃にはもう、笑い話になっていた。


「本当に、大変だったなあ……」

 コジロウはひげをぴくりと動かした。

 そして、ふと空気のにおいを嗅ぐように鼻先を空へ向けた。

 どれだけ似た景色があろうと、どれだけ同じようなにおいがしようと、ここはコジロウが暮らしていたあの土地ではない。

 そして、今ここにはコジロウしかいない。


「……みんな、今頃どうしているだろう」

 コジロウは友達を一匹一匹思い浮かべてみた。

 しかし、彼の呟きに応える者はなく、声はぼんやりと静寂の中に溶けていった。

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