第19話 やかましい二人

 ブロック塀の行き止まりまで来ると、大きな木が枝を伸ばしていた。

 香りからして桜のようだ。淡い色の花がちらほら咲いている。

 すべての枝いっぱいに花が咲くのは、もう少し季節が進んでからだろう。

 ハチはブロック塀から枝に移り、振り返って言った。


「そこ、崩れかけてるから気を付けるでやんすよ」

「はい」

 コジロウはハチと同じように枝へ移ろうとしたが、ブロック塀を離れる直前に足元がぐらりと崩れた。


「ふぁはっ!」

 声にならない悲鳴を上げ、慌てて幹にしがみつく。

 ブロック塀の破片が下に落ちて行き、地面がはるか遠くに見えた。


「やれやれ。言わんこっちゃない」

 ハチがのんびりそう言うのが聞こえた。

 どこか面白がられているように思えるのは気のせいだろうか。


 コジロウは四本の足がすべて枝の上にあることを確認し、後ろ足を何度か振って、こびりついた浮遊感を払拭ふっしょくした。


「はあ。……びっくりした」

 ほっと溜息をつき、あらためて下を見る。

 ブロック塀は少し形が変わってしまったようだが、どうせ直す術もないので気にしないことにする。


「さあさあ、まだまだ歩くでやんすよ」

 ハチに明るく声をかけられ、コジロウは再び歩き出す。


 二匹は枝を伝ってなるべく高いところまで登り、雨どいに足をかけて屋根の上へ飛び乗った。

 屋根瓦は日に照らされてじんわりと温かくなっている。

 春先の屋根の上は絶好の昼寝ポイントだが、もっと季節が進めば肉球を焼く凶器に変わるだろう。


「あの、ハチさん。ずいぶん歩いたと思いますが、どこまで行くんですか?」

 コジロウが尋ねると、ハチはやけに嬉しそうに言った。

「朝食でやんすよ」


 そのまま屋根伝いに反対側の道へ出ると、突然、耳が痛くなるほどの騒音が飛び込んできた。


「奥さん! 今日のおかずは魚で決まりだ! とびきりうまくて新鮮な魚だよ!」

「馬鹿を言っちゃいけねえ! 今日はうちの肉でうまい手料理! これっきゃない!」


 住宅が建ち並ぶ中、道路をはさむ両側に店があった。

 それぞれの店の前には人間が一人ずつ立っていて、二人は競うように叫んでいた。


「馬鹿を言ってるのはお前さんの方だろう! 魚が体にいいってのは昔からの常識。肉ばっかりだとあんたみたいにメタボまっしぐらさ」

「メタボで何が悪い! 好きなもん食えねぇで長生きすることに何の意味がある!」

「そんなら俺はあんたの墓の前で踊ってやる! ああ、今から楽しみだねえ」

「なんだと! この野郎!」


 二人は今にも取っ組み合いを始めそうな勢いで睨み合っている。

 コジロウはたまらず耳をたたんだ。


「あーあー、今日はいちだんとやかましいでやんす」

 そう言いながらもハチは涼しげな顔をしている。

 そして、この騒音をものともせず男たちの方へと近付いて行った。


「ハ、ハチさん、ちょっと……」

 コジロウが呼びかけても、ハチは足を止める様子がない。

 かなり近付いたところで男たちはようやくハチの存在に気が付いた。


「ちっ、テール、お前また来やがったのか! いくらうちの肉がうまいからって、そう何度も来られちゃ商売の邪魔だ! あっちへ行け!」

 そう怒鳴ると、肉屋の男は道端へ何かを放り投げた。

 すかさずハチがそれに飛びつく。

 どうやら鶏肉を茹でたもののようで、ハチはそれをうまそうに食べ始めた。


「よしよし、カレイ。あいつの店の肉なんぞ食べなくていいからな。日本の猫には魚と昔から相場が決まってるんだ。ほら、うちの店の魚の方がよっぽど口に合うだろう?」

 魚屋の男がそう言い、発泡トレーに乗せたマグロのぶつ切りをハチの側にそっと差し出した。


「なに! おいテール、うちの肉の方がうめぇだろう?」

 ハチは返事もせず無言で食べ続けていたが、肉屋の男は勝手に納得して頷いた。

「そうかそうか、うめぇか。なんたって俺の店の肉だからな。見ろよこの食べっぷり。美味い物を喰っている時は無言になるよな」


 しかし、魚屋が言い返す。

「ばーか、それは人間の場合だろう。猫はうまいもん食う時『んまんま』って鳴きながら食うもんさ。知らないのか?」

「いい年した親父がメルヘン語ってんじゃねぇ!」

「なんだと! この世にあんたのメタボ腹より無駄な物はないね!」


 そんな不毛な言い争いが続く中でもハチは平然と食べ続けている。

 先の黒いしっぽがゆらりと揺れ、招いたように見えたので、コジロウも慌てて駆け寄る。


「魚の方でよかったでやんす? 肉はだいぶ食べちゃったでやんすけど」

 ハチがそっとささやく。

 コジロウはマグロのぶつ切りを頬張りながら頷いた。

「なんでも……ふがっ、結構です、……もぐ」


 その時、コジロウに気付いた肉屋が声をかけてきた。

「あれ? ミルフィーユ・カツじゃねえか。久々だな」

「そいつは新顔だろ。サーモンはもっと色が薄かったはずだ。だいたいあいつは一昨年の冬から来てないさ。それと、相変わらずお前のネーミングセンスは最悪だな」

「なんだと! じゃあお前はこの猫になんて名前をつけるつもりだ?」

「虎模様だから、ブラック・タイガーなんてどうだ? お前の頭じゃ考え付かないナイスネーミングだろう」

「どう見てもブラックじゃねぇだろうが!」


 男たちはまだくだらない言い合いをしている。

 トレーが空になり、ハチが目配せしてきたので、コジロウもその場を去ることにした。


「ごちそうさま。……あの、お魚とても美味しかったです。次はお肉を食べに来ますね」

 そう言ってはみたものの、男たちの耳にはとても届きそうになかった。

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