第二章 猫たちの屋敷

第9話 大きな屋敷と老女

 商店街を通り抜け、雑居ビルやコンビニが立ち並ぶ界隈を通り過ぎ、住宅街に差しかかる頃になると、町中に暗闇が忍び込んできた。

 夜が始まると思うと少しそわそわした。


 ハチに連れられて、コジロウは大きな屋敷の前に来ていた。

 庭に足を踏み入れると、松脂まつやにのにおいがした。それにも増して強く漂うのは沈丁花の甘い香りだ。

 他にも名前の知らない草木が群がり、迫り上がるように伸びている。

 まるで柔らかな緑色のカーテンを広げているようだ。


 足元には密度の濃い芝が広がり、歩くたびに肉球がこそばゆい。

 飛び石が等間隔に埋められており、ハチがその上を歩いてゆくのでコジロウもそれにならう。

 家は古びた木造の建物だった。壁の色はすっかり褪せてくすんでいる。

 そのせいか、かなり大きな建物なのに存在感はどこか稀薄だった。


 コジロウは、建物の中で何かがうごめく気配を感じた。

 ひとつやふたつではない。無数の何かが、それぞれの意思を持って動き回っている。

 緊張でひげがピクリと跳ねた。


「こっちでやんす」

 ハチの後ろについて砂利道を通り抜けると、玄関の前に出た。

 大きな松の幹がしなり、頭上を覆っている。

 入り口に大きな壺が置いてあり、一本だけ傘が差してあった。


 ハチは引き戸の側で立ち止まると、じっと上を見据えた。

 何をしているのだろうと不思議に思っていると、彼は高く跳び跳ねた。

 次の瞬間、建物の中でチャイムの音が響いた。

 それは家の中にいる人間を呼び出すための合図だということをコジロウは知っていたが、あくまでも人間同士で使われるもので、まさか猫であるハチが同じことをするだなんて信じられなかった。


「すごい! 今の、どうやったんですか?」

「なあに、あのボタンを押すだけでやんすよ」

 ハチは造作もない様子で言ってのける。


 間もなく家の中に明かりがつき、引き戸のガラスから光が漏れた。眩しさに目を細めると、がらりと戸が開いた。

「あら、碁兵衛ごへえ。よく来たわねえ。今日はお友達も一緒なの?」

 光の中から人間の声が聞こえた。


 眩しさにゆっくり目を慣らしながら観察すると、出てきた人間は皺や髪の色からしてかなり年を取っている部類だとわかった。戸に掛けている手にも深い皺が刻まれている。

 声も顔と同様に枯れていたが、響きの柔らかさから女性だとわかった。

 ハチは「ナッ」と、今度はとても短く鳴き、それだけで相手は汲み取った様子だった。


「碁兵衛はお利口さんね」

 老女はにこにこと微笑む。

 碁兵衛とは、ここでのハチの名前のようだ。

 猫が複数の名前で呼ばれることは珍しくないし、コジロウにしてもそれは同じことだった。


 ハチは戸の隙間からするりと中に入った。

 どうしたものかと戸惑っていると、彼は立ち止まってこちらを振り返った。

「早く」

「は、はいっ」

 促され、コジロウは慌てて後に続いた。

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