第5話 ああ、トンカツは魅惑の香り

 そろりと這うように、コジロウはにおいのする方へ進んだ。


 暖簾のれんがかかっている建物があり、においはその中から流れ出てくる。

 外には人間たちの行列ができていた。

 彼らもこのにおいに引き寄せられたのだろうか。


 どこからか入れないかとうろうろしていると、不意に建物の裏口が開いた。

 慌てて身を潜め、じっと様子をうかがう。大きな袋を持った人間が出てきて、外に置いてあったバケツの蓋を開けた。


 その瞬間、なんとも魅力的なにおいがコジロウの鼻をくすぐる。それは、この建物の中から流れ出てくるのと同じにおいだった。

 嗅覚と知識と経験と勘と想像力を総動員し、そこにささやかな期待を加えて、コジロウは考える。

 きっとこれは「トンカツ」という食べ物に違いない。


 これが食卓に登場すると、ヒアキもヨウジもお父さんも目に見えてはしゃぐのだ。

 コジロウも食べてみたいと幾度も交渉を重ねたが、「コジロウの体には悪いから」と言われるばかりで誰もわけてくれなかった。

 仕方なく、トンカツの味を妄想しながらいつものカリカリを噛み砕くばかりであった。


 そうこうしているうちにバケツの蓋は閉められ、人間は建物の中へと戻って行った。その足音がほとんど聞こえなくなるまで遠ざかるのを待ってから、コジロウはそっとバケツに歩み寄る。

 傍に立ってみると、バケツは思ったよりも背が高く、めいっぱい背伸びをしても上まで届きそうになかった。


 次に蓋の上へ飛び乗ってみたが、自分が上に乗ってしまっては開けられないと気付いた。他に方法はないかと、バケツに乗ったまま下を覗き込む。しかし、アスファルトが見えるばかりだ。


 その時、幸か不幸か、コジロウの重みでバケツがわずかにかしいだ。

 素早く飛び跳ねてコジロウは事無きを得たが、バケツの方はそうもいかなかった。

 蹴られた衝撃でさらに不安定さを増し、踊るように円を描いたかと思うと、とうとう倒れてしまった。


 鈍い音が辺りに響き、コジロウは慌てて物陰に飛び込んだ。

 バケツの蓋が外れ、車輪のように激しく回転しながら路地のどこかへ消えてゆく。それを見送ってから、コジロウはそろそろと顔を出した。


 横倒しになったバケツから、中身が飛び出していた。

 おそるおそる近付き、においを念入りに嗅ぐ。それらは固く口をとじられたビニール袋に入れられていたが、においといい、形といい、色といい、やはり記憶にあるトンカツで間違いなかった。


 ああ、ついにトンカツを食べる機会が訪れたのだ。家族たちがあれほど歓喜するのだから、さぞかし美味しいに違いない。


 コジロウはすぐさまビニール袋を引き裂く作業にかかった。

 爪をめいっぱい出して振り下ろす。しかし、ビニール袋は想像していたよりもはるかに強敵だった。

 つるつるして爪がひっかからず、ひっかかったとしてもなかなか裂けない。

 今度こそと思い、爪に力を込めたその時。


 コジロウのすぐ隣に、黒い影がふわりと舞い降りた。

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