第4話 空腹の迷子

 コジロウが迷子になったのは、これが初めてではない。


 仔猫から若者猫に成長し、網戸の開け方を習得して家から自由に出られるようになったばかりの頃は、目に映る何もかもが珍しくて風に流される雲のようにどこまでも歩いていったものだ。


 そうして好奇心を胸いっぱい満たした代償に、気が付けば見知らぬ土地に独りぽつんと置き去りにされている、なんてことは数えきれないほどあった。


 一時期などコジロウは、好奇心とは『猫さらい』と同義ではないかと真剣に考えたことすらある。

 とすれば食べ物のにおいはもちろん、草花にちらつく些細な影や、小動物や昆虫からにじみ出る躍動感、どこかで滴る水音や、土に染み込んだにおい、遠くから来てまた遠くへ旅をしてゆく光たちや風たちなども、すべて疑わしき存在であるに違いなかった。


 それらは、距離や時間の感覚を狂わせ、疲労感を麻痺させ、意思を奪い、コジロウの足までをも自在に操り、いとも簡単に遠くへと連れ去ってしまう。

 そう、これは仕方のないことなのだ。


 そんな言い訳をもてあそびながら、コジロウは街路をさまよい歩いた。

 いくつかの道を渡ると、周囲の景色は住宅街から商店街へと変化していった。


 頭上からは絶え間なく騒音が流れ、建物からは光があふれている。

 看板やワゴンや植木鉢が所狭しと並び、足元には同じ大きさのタイルが規則正しく並んでいる。

 行き交う人間も多く、若い人間もいれば年のいった人間もいる。雑踏の足音や話声にくらくらした。

 中には犬を連れている人間もいて、嗅覚の鋭い彼らに見つかって吠えられたりしないだろうか、と不安になる。


 コジロウは、逃げ込むように建物と建物の隙間に入った。

 途端に日の光が遮られ、ひんやりとした空気に包まれる。湿気がまとわりつき、ひげの先が少しだけ重い。

 ツンとした臭いが鼻を刺激する。仕方ないので鼻の穴をきゅっとすぼめ、なるべく息を我慢する。


 足元はコンクリートで固められ、土は見当たらない。

 わずかな塵埃じんあいを足掛かりにして、雑草がひょろりと根を張り、小さな花を咲かせている。

 塀や壁は黒くすすけ、年季の入った油汚れでべったりしている。毛についたら厄介だ。足取りは自然とそろそろしたものになる。

 ここなら犬も人間も入ってこないだろうし、入ってきたとしても建物に挟まれて方向転換すらままならないはずだ。


 そんなふうに油断していたら、足元を何かが走り抜けていった。

 腰を抜かさんばかりに驚いていると、太った鼠がちょろちょろと走り去ってゆくのが見えた。

 からかわれたのだと気付いたが、追いかけて恐い思いをさせてやるほどの元気はない。相手もそれを見越してやっているのだろうと思うとさらに気力が失せた。


 幾棟かの建物を通り過ぎると、ふたたび広い通りにぶつかった。いたるところから脂のにおい、香ばしいにおい、辛そうなにおいがする。

 通行人が通り過ぎるたび、食べ物の匂いがふわりふわりと運ばれてくる。そのうちのひとつがコジロウの鼻をとらえた。

 それは、この界隈でかいだ中で最も魅力的なにおいだった。


 コジロウは自身の空腹に気付いた。そういえば、朝食を最後にずっと何も食べていない。

 不安と寂しさと切なさを訴えるように、腹がきゅるると鳴った。

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