第3話 怒りの三毛猫

 そこは、もう建物の中ではなかった。


 右側には家の外壁がそびえ、左側には生垣が続いている。コジロウは自分が細い通路のような場所にいることに気付いた。


 冷たさの残る春先の風が、歓迎するように全身の毛をなでてゆく。

 草木のにおいや排気ガスのにおい、そして太陽のにおいが鼻をくすぐる。

 上を向けば青空が見えた。


 足元には砂利が敷きつめられ、少し歩くと「ジャッ、ジャッ」と小さく鳴った。

 生垣に沿って進むと、小さな庭に出た。土の香りが濃厚に漂い、コニファーの新芽が誘うように揺れている。

 素焼きのプランターには花が並び、日の光を受けて色鮮やかに輝いている。


 新しい家も、砂利の敷かれた細い通路も、この小さな庭も、コジロウにとっては「初めて見る場所」だった。

 青空や太陽さえも、いつもとはどこか違って見える。


 肉球で土の感触を確かめながら、コジロウは注意深く進んで行った。

 耳や鼻をせわしなく動かし、ひげで微細な風をとらえる。

 知らない土地に心が高ぶる。


 庭の端まで来ると、コジロウは生垣の隙間を探してもぐりこんだ。

 その向こうにもまた小さな庭があり、やはり見たことのない場所だった。

 天使や動物をかたどった石膏像の間を通り抜け、白い柵の下をくぐりぬける。


 大きな石と端正に整えられた庭木を見ながら石畳を踏みしめ、高い塀に飛び乗る。

 どこまで行っても、知っている場所に辿り着かない。


 道に迷わないうちに引き返した方がいいだろうか、それともまだ少し歩いてみようか……などと考え始めていた時だった。

 突然、鋭い声がコジロウを襲った。


「あんた、誰よ!」

 肩がびくりと跳ね、そのままの姿勢で凍りつく。

 無意識のうちにしっぽがぶわっと膨らむ。


 そろりと振り返ると、一軒の家が目に入った。

 窓ガラスが少しだけ開いており、その隙間から三毛猫が睨んでいる。

 目が合った瞬間、しっぽだけでなく背中の毛まで膨らんだ。


 恐くて仕方なかったが、コジロウは精一杯穏やかな声で話しかけた。

「こっ、こんにちは。あ、あの、僕は……」

 その言葉をぴしゃりと遮り、三毛猫は牙をむき出しにした。

「勝手にうちの庭に入るんじゃないわよ!」

 一瞬怯んだものの、コジロウはあくまでも穏やかな口調を続けようと努める。

「すみません、道がわからなくて……」


 そう言い訳をしてみたものの、どうやら何を言っても相手の神経を逆なでしているようにしか思えなかった。剣呑な雰囲気はどんどん強まり、これから嫌なことが起こるぞ、と勘が告げていた。


「問答無用! あなたのしっぽに別れを告げなさい、今すぐ喰い千切ってやる!」

 三毛猫が歯をむき出した。

 もはや話し合いの余地はない。

「うっ、うわああっ!」

 コジロウはたまらず逃げ出した。むしろ最初からそうすべきであったとさえ思った。


 柵の隙間に体をねじ込み、生垣に潜って葉っぱを散らし、花壇の土を蹴り上げ、逃げる、逃げる、とにかく逃げる。

 全力で走っているつもりだが、しっぽに余計な力が入ってヒョコヒョコと変な走り方になってしまう。

 それすらも今は気にしている場合ではない。


 そんなふうに無我夢中で逃げたものだから、どこをどう走ったかなんて覚えているわけがなかった。

 すっかり息が上がってきた頃、コジロウはようやく後ろを振り返った。

 どうやら相手は追ってこないようだ。

 そして、改めて辺りを見回す。


「あれ、ここは……」

 コジロウは途方に暮れた。

 今どこにいるのかも、どこから来たのかも、さっぱりわからなくなってしまったのだ。


「……どうしよう」

 知らない土地に囲まれ、耳とひげとしっぽがだらりと垂れた。

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