第6話

 強い踏み込みと、厚い空気の層のように感じられる寮の壁の感触は卯辰歩祢にとって解放のシグナルだった。

 彼女の持つ青い魔法、自身の存在と世界との関わりを薄くすることによって物を通り抜ける能力を利用して毎日のように深夜、卯辰は寮を抜け出して夜の街を歩く。


「結構涼しくなってきたなー。」


 手を大きく広げ、卯辰は小さな声で叫ぶ。いまだに明かりを灯す窓は疎らにあるものの、ほとんどの窓からは光が消え、夜空に輝く星のほうが明るく感じられる。

 静かな住宅街を通り抜けて、卯辰は第四高校に向かう。昼間は学生の熱気で騒がしい学校が冷え切って宵闇に佇むのを見つめ、静かに寮に帰ることを卯辰はルーティンとしていた。


「ん?」


 しんとした暗闇の中から、足音が響く。卯辰から遠ざかる方向に、走っていくような足音だ。


「誰かいるのかな?」


 卯辰は興味を抱くが、足音を追おうとは思わない。真夜中は静かだから好きなのであって、無駄な要素を挟み込みたくはない。

 静かな雰囲気を壊され、少し気分を害しつつ卯辰はゆっくりと学校へと続く曲がり角を曲がる。そこで彼女は奇妙なものを見つけた。


「人魂?」


 思わず非現実的なものを連想してしまうほどに見覚えのない何か。燐光を放つ液体が見えない球体の中を流動し、時々、重力に引かれて地面に落ちる。

 内なる恐怖心を煽るようなその見た目に、無自覚に卯辰は足を一歩、後ろに踏み出す。後ろを振り返り今にも走り出そうとする卯辰の足は、気付かぬうちに卯辰の背後に立っていた人を認識し、慌てて動きを止める。


「あなたは、昼間に会った……」

「あれ、暗くて良く見えてなかった。まさか……さっきぶりです、ね。」


 赤い目と柔らかな七三分け。驚いているのか、やたらとぎこちない動きをする男子は昼間、卯辰の落としたハンカチを拾った人だった。


「これ置いたのってあなたですか?」

「いいえ……なんでしょうか。これ。」


 宙に浮く気色の悪い球体を触ろうか触るまいか、逡巡する男子を見ながら卯辰は思考を巡らせる。空中に物を設置することは、「止まる」……つまり白の魔法使いしか出来ないことだ。確かに、赤単色の彼が設置したわけがない。


「あんまり触らない方が良いと思いますよ。毒かもしれないですし。ところで、名前は何て言うんですか?」

「郷見第二高校1年、細坪御貴鷹です。詳細の細に面積単位の坪で、細坪っていいます。あ、あなたは?」


 卯辰はこんな深夜にこんなところにいるあからさまに怪しい人間に名前を教えるのが躊躇われたが、自分が訊いてしまった手前、名乗らないわけにはいかないだろうと決心する。


「卯辰、歩祢。十二支の卯と辰で卯辰っていいます。歩祢は歩むに、一人称の称が示す偏になった祢って読む字で歩祢です。よろしく?」

「よろしく、お願いします。」


 動きは硬いし、口調も緊張しているみたいにぎこちない。細坪は変な人だなあと卯辰は思った。


 ◇


 細坪は、寮の管理人が門限に厳しい人で、怒られるのが嫌で寮に帰りたくないのだと言った。


「何で門限過ぎまで外にいたの?」

「それが……」


 細坪は言いづらそうな顔をして動きを止め、まさか立ったまま気絶しているんじゃないかと卯辰が心配になり始めた頃にやっと、ゆっくりとぎこちなく体を動かした。真剣な顔で卯辰の目の前に姿勢を正して立ち、無言で1秒ほど深呼吸をしたのちに深くお辞儀をしながら細坪は恥ずかしそうな小さな声を出す。


「ずっと、好きでした。公園で見かけるたびに目で追ってしまい、いつか声を掛けようと思ってたんですけど緊張して……。まだ互いのことを良く知りませんが、付き合っていただけないでしょうか。」


 卯辰は目を逸らし、どう答えようか考える。ぶっちゃけ、全く知らない人に告白されるという初めての経験に動揺している。

 今は気になる人もいないし、こうも真っすぐ言葉を伝えられると応えたくなる気持ちがあるが、今日初めて会った相手に簡単に「はい」とは言いづらい。それに、卯辰には告白された経験が無かったのでこういう時に使える便利な言葉のバリエーションも持っていなかった。


「ほ、保留とか……。」

「保留?」

「保留、かな。」


 肯定か否定のどちらかの返事が返ってくると思っていた細坪は予想外の返答に動揺を隠せず頭上に疑問符が浮かぶ。卯辰はそんな細坪の様子を視界に入れることすらなく思考を巡らし、考えたことがそのまま口から零れ落ちる。


「でも、もう話しかけるタイミングがないかもしれないから……」


 その言葉に否定のニュアンスを勝手に感じ取った細坪が、絶望したような顔をする。卯辰はさらに深く思考し、細坪の様子は目に入らない。


「そうだ、門限破ったついでに一緒に家出しない?」


 文脈が見えない言葉に、細坪が混乱して変な顔をする。


「なぜ?」

「うーんと。しばらく一緒に過ごせば好きかどうか分かるかもしれないし。それに、家出してみたかったんだよね私。」


 卯辰と一緒に過ごしたいという気持ちと学生として家出は不味いのではないかという気持ちがせめぎ合い、細坪は難しい顔をする。

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