エピローグ

 暖かな日差しが降り注ぐ。

 渡り廊下を歩く匡孝の背中を、ぽん、と吉井が叩いた。

「帰る?」

「うん、部活は?」

「今日は休み」

「春人は?」

「用事あるとかってもう帰ったぞ」

 始業式の今日は昼までで終わりだ。

「飯食ってく?」

 と吉井が言った。


 春──

 3年生になった。

 匡孝は専門学校に進むことを決め、結局進学組のクラスとなった。同じく進学希望の姫野と吉井とはクラスが分かれた。といっても4クラス、2組ずつに分かれているだけなので、教室は隣り合わせだ。姫野は大いに不服そうだったが、むしろその成績で進学希望だったのかと周囲を驚愕させた。

「俺そんな成績悪くねーしっ」

 いや、自覚がないことがそもそもの問題か。

 しかも──

「なんであんたが担任なんだよっ」

 姫野のクラスの担任は市倉だった。市倉はこの春から正職員として立星に籍を置くこととなった。

「そりゃ俺の台詞だよ」

 市倉はこれみよがしにため息をついた。

 初日から食ってかかる姫野を軽くあしらって、市倉はホームルームを始めた。


 いやもう鬱陶しいよ、と吉井はため息をついた。

「オレは匡孝とがよかった」

「隣だろ。…そんな大変?」

「たーいへん」

 はは、と匡孝は笑った。笑うなよ、と吉井がテーブルの向かいで憮然としている。

「一年あいつと一緒とかマジ地獄…あ、今日バイトだっけ?時間まだ大丈夫か」

 匡孝はやってきた定食を受け取りながら頷いた。

「夕方からだし、いっぺん帰っても時間あるよ」

 そっか、と吉井は笑って、自分の分の昼食を頬張った。


 あれからしばらくして、祖母のもとに母から連絡があった。

 その時の話を祖母は思い出したくもないと言ったが、要点だけを匡孝に教えてくれた。

 母が言ったのは、まさしく連絡事項だった。

 匡孝が卒業するまでの生活費、学費などは自分が面倒をみること、今匡孝が住んでいるマンションは匡孝が二十歳になるまで住んでもいいこと。卒業してすぐに家を出ても、二年間はそのままにしておき、売却はしないと約束すること。

 そして匡孝が卒業したら、一切のかかわりを家族とは持たないこと。

 佐凪と拓巳の事については祖母は教えてくれなかったが、似たり寄ったりのものだったのだろう。

「ほんとにくたばれって感じでしょ⁉いい死に方しないわよあの女!」

 佐凪が祖母を慰めながらそう言ったのを思い出す。

「あんなのが私の親かと思うと死にたくなるわ!むしろ死ね!」

「姉ちゃん…」

 拓巳が小さい声で窘める。

「私たち、あの家に未練も何にもないから、お兄ちゃんの好きにしていいんだからね?お兄ちゃんとの思い出はたくさんあるけど、あそこには行きたくもないんだから」

 分かった、と匡孝は苦笑した。

 ずいっと佐凪が膝を詰めてきた。

「それよりさあ、彼氏いつ紹介してくれるの?年上?年下はないよねえ…同級生ってわけないでしょ?ねえ、かっこいいの?何歳なの?何してる人?」

「え、いや、あのっ…えーとっ」

 あわあわとたじろいでいると、祖母が涙をふきながら顔を上げた。

「まあ、じゃあ年上?私もその人に会ってみたいわあ」

 匡孝は引き攣った。

 祖母の顔が楽しそうに見えるのはなぜだ。

「ば、祖母ちゃんっ…!」

 にやりと佐凪が笑う。

「ふーん、年上だね、…これは──先生とかだったりして?」

「──」

 今度こそ完全に匡孝は声を失って、ぱくぱくと金魚のように口を開けるしかなかった。

 佐凪は勝ち誇ったようににっこりと微笑みを作った。


 そして実際、その何日か後に、まとまった額のお金が匡孝の口座に振り込まれていた。

 それを見ても、匡孝は何も感じなかった。

 出来るだけ佐凪と拓巳のために、残しておいてやりたいと思っただけだった。



「そういや、卒業したらどうするんだ?」

 匡孝は箸を止めた。

「どうするって?」

「家出るって言ってただろ、引っ越すのか?行く学校ってちょっと距離あるよな」

 ああ、と匡孝は頷いた。

「うん、あそこはもう卒業したら出るから、適当なところ探そうかなって。夜はコンタットで仕事だから、どっちも通いやすい所で」

 まだ先の話だが、出来るだけ早く目星はつけておきたいと思っていた。

 市倉は車で通うから、特に距離にこだわらなくていいと言っていたが…

「なるべくどっちかの中間地点とか、そんな感じかなあ」

 ふと、吉井が食べる手を止めた。

「──…なあ」

 ん?と匡孝が目を上げる。

 箸でつまんだ御新香はすごく美味しい。浅漬けだ。

 こういうのいいなあ。今度作ってあげようかな。

「あのさ、一個、聞いていいか?」

「うん」

 ぽりぽりと漬物を右の頬で噛んでいる匡孝を、じっと吉井は見据えた。

 そしてちょっと言いにくそうに切り出した。

「どっちかって、場所の事じゃないよな?」

「──」

「それって、つまり、おまえといっちゃんのって、ことだよな?」

 ぐ、と匡孝は息を詰まらせた。

 え、なんで?

 なんで分かった⁉

「──おまえ、マジかよ…!」

 長い沈黙の後ではあ、と深くため息をついた吉井が唸るように言った。

「おまえなあ、なんでオレに気づかせるんだよ…!」

「えっ⁉」

 なんで⁉と匡孝は身を乗り出した。

 今のでなんで気がついたんだ。

 エスパーか。

「オレにどうやって一年間あいつからこのこと隠せって──!…あああもお、ふざけんなよーっ」

「ご、ごめんっ」

 頭を掻きむしって怒っている吉井に、わけもわからず匡孝は謝り倒した。

 拝んで宥めて褒めちぎって、ようやく吉井の怒りと動揺が収まると、ふたりして深くため息をついた。

 とにかく、と吉井は言った。

「あいつにだけは知られないようにしよう」

「うん」

 意見が一致して何よりだ。

 吉井は目の前の匡孝をじっと見て、はあ、ともう一度ため息をついた。

 大丈夫かなこいつ。

 いや、色んな意味で。

「ナツ、ご飯冷める」

 残った皿の中を片付け始めた匡孝が言った。

 食欲なんてもうないが、言われるがままに箸を取り、吉井は言った。

「マスクしろおまえ」

「は?」

「オレにばらした罰として一年間マスクしとけ」

「えっなんで⁉」

 顔でバレバレなんだよ、と思いつつ、しばらく教えてたまるかと、もうすっかり冷えた味噌汁を吉井は啜った。



 春が終り、夏が来て、秋が終わりを迎える頃、市倉の恩師が亡くなった。

 匡孝は一度、市倉とともに会いに行ったことがある。

 草場は穏やかな人で、にこにことして、ずっと笑って匡孝の話を聞いてくれていた。

 新しく覚えたばかりのコンタットのケーキを作って持って行き、3人で食べた。

 多めに持って行ったそれを美味しい美味しいと食べてくれて、手を振って別れた。

 それからほんの2か月後に眠るようにして逝ってしまった。

 別れ際に、市倉君をよろしく頼むね、と匡孝の手を握って言っていた。

 その日は平日で、知らせを受けたのは夕方の事だった。

 市倉は止めたばかりの煙草を吸っていた。

 国語準備室の窓の外を、銀杏の葉がはらはらと落ちていく。

 扉を開けて、匡孝は中に入るのを躊躇い、そのまま市倉の背中を見ていた。

「ちか?」 

 匡孝に気づいた市倉が振り返って、困ったように笑って、泣くなと言った。

「ばかだな、…ほら」

 匡孝の頬を伝う涙を指ですくった。


 冬、浜村がまた年に一度の風邪を引いた日に、大沢は猫を拾った。

 黒と白のハチワレの小さな仔猫だった。

「…おーい、大沢さーん、ポカリとビタミン剤買って来た…うわっ!」

 裏口から入った吉井は、足下にじゃれつく仔猫に飛び上がって避けた。

「ああ悪い──おいで」

 奥の小部屋から顔を出した大沢が仔猫を呼んだ。

「猫が嫌いなのか?」

 中身の詰まったレジ袋をどさっと事務机の上に置いて、吉井は言った。

「いーや、びっくりしただけだよ。はいこれ領収書」

「ありがとう」

「どうっすか、具合」

 ああ、と大沢は腕の中の仔猫の頭を撫でた。「いいんじゃないか?」

「いいんじゃないかって、あんたねえ…」

 小部屋の中を吉井はそっと覗いた。奥のソファベッドで浜村が寝ているのだ。しかしサイズが合わず足がはみ出している。

 家にいても一人暮らしなので看病する者がおらず、毎回ここで寝込むらしい。ここなら大沢が様子を見に来れるからと、随分前にそういうことになったようだ。

「換気しなきゃだめですよ、飯食いました?」

「江藤君が作ってくれたのがあるよ」

 いや、と吉井は思う。

 あんたが、なんだけど。

「君は?今から予備校か?」

「いや今日は休みですよ」

 吉井はあれからなんだかんだとコンタットを手伝っている。最初は中々手厳しかった大沢も、最近ではすっかり打ち解けてくれるようになった。少し崩した言葉遣いで喋っても、近頃では怒られることもなくなった。

「じゃあ何か食べていくか?僕も食べるよ」

「何かって?なんかあんの?」

「あるよ」

 ふたりで厨房まで行き、がこん、と扉を開けると、冷凍庫の一角には綺麗にラベリングされた一食分ごとのストックが大量に収まっていた。

 全部、大沢用に浜村が作っておいたものだ。

 すげえな、と吉井は感嘆した。

 これはもう、愛なんじゃないだろうか。

「カレーとか、グラタンとか…あ、こっちはトマトスープか」

 何にする?と言われて浜村はトマトスープをふたつ取った。

「これにして、オレがパン焼きますよ。パンのストックもあるんだろ?サンドイッチでいい?」

「え?」

 呆けたように大沢が吉井をじっと見つめた。

「君作れるんだね」

「うち共働きなんでね」

 しゃがみこんで、冷凍庫の下段にあるはずのパンを探しながら吉井は言った。

「大沢さんさあ、…添加物が食べられないんだろ?」

 傍らを見上げると、大沢はかすかな微笑みを浮かべていた。

 大沢の腕の中で仔猫がにゃあと鳴いた。

「名前付けたの?」

 その柔らかな毛を撫でて、吉井は聞いた。

 まだだよ、と大沢が言った。

「君が付けたらいいよ」

 と大沢が笑った。

 奥の方から、げほげほと浜村が咳き込む声がした。


***

 

 季節は巡り──

 また春が来た。

 花が咲くには少しばかり早く、暖かなその日、匡孝は卒業を迎えた。

 暖かな風が吹いている。

 どこからか甘い花の匂いがする。

「ちか、帰りどっか行こう」

 姫野が教室を出た匡孝を捕まえて言った。

 泣いていたのか、その目が赤い。春人らしいと苦笑して、匡孝は姫野に言った。

「いいよ、でもその前に用があってさ、後で行くのでもいい?」

「用って?」

「ハル、行くぞ!」

 吉井がその襟首をぐいっと掴んで引きずっていく。

「うわっ、ちょっ!夏生ッ!」

 吉井は振り向いて匡孝に目配せした。

「匡孝後でな、場所は送る」

「分かった」

 匡孝も目でごめんと謝って、人でごったがえす廊下を足早に歩いた。


 連絡通路に差し掛かったとき、開いた窓から風が吹き込んできた。窓の外に咲いていた雪柳の花びらが廊下に舞った。

 まるで雪のように、ひらひらと降り積もる。

「江藤」

 振り返ると市倉がいた。

 胸に同じように花を付けている。

 白い花が暖かな風に踊る。

 その光景にあの春の記憶が重なっていく。

 あの時──もしも出会わなければ、違う未来に自分たちはいたのだ。

「先生」と匡孝は言った。

「卒業おめでとう」

 穏やかに笑う顔が春の日差しの中にある。

 市倉は匡孝の髪についた花びらを指先で摘んだ。

「ありがとう」

 匡孝は微笑んだ。

 今も、これからも。

 いつの春も同じように。

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