大后
泊瀬部が政務をとる倉梯柴垣宮の隅。本来このような場にいるはずのない女性に、厩戸は驚きを隠せなかった。その気持ちを当人も分かっているのか、
「少しいいかしら」
厩戸はチラリと周りを伺った。泊瀬部の元から退出してきた群臣たちは、顔を突合せてたらたらと何かを述べながら去っていく。奥まった此方には来る様子もなく、厩戸は少し考えてから頷くことにした。
額田部はゆるやかに目を細めると、裏にある輿へ乗り入れる。厩戸の分も用意されていたので、少々背を低くしながら身体を滑り込ませた。
単に厩戸を呼び付けたいのなら使者を送れば良い。わざわざこちらへ来ていたということは、大王として即位した泊瀬部の様子を見に来たと思われた。同時に、彼女が話したいことというのが今後の国のことなのだろうとも考えられた。
「泊瀬部は変わったのう」
額田部の宮に通されて一番にそう聞かされた。厩戸は「ええ」と頷くだけにしておいた。馬子が後ろ盾になっている以上、下手なことはいえない。彼女が竹田の母であることは重々承知しているからだ。
泊瀬部の後釜として己と比較される相手が彦人と竹田になろうことは、厩戸も既に心得ている。竹田のことは友人として好いているが、我が子を慈しむ額田部には勝るまい。争いたくないとはいえ、周りの人々が厩戸と竹田の気持ちを尊重してくれるとは限らなかった。なるべく余計な火種は作らないでおきたい。
頷くだけの厩戸を見て、額田部は色々と察したようだ。姿勢を正すと「時に厩戸」と侍従を下がらせる。
「先の戦での指揮、見事であった。馬子や赤檮を突き動かしたのだろう?」
はて、指揮などとったであろうか。周りから戦の様子を聞いていたのか、額田部は満足そうに頷いている。しかし正直、厩戸は最終日間際のことをよく覚えていなかった。何か自分ではないものが乗り移っていたかのように曖昧で、口をついて出た言葉が何だったかさえ覚えていない。
しかし、難波と春日が死んだことに心を殴られたのは確かだった。上手く悲しめなかったくせに、物部を倒さねば犠牲が増えると憤りのようなものを感じていたのを覚えている。それゆえ煮えきらぬ馬子に強く当たってしまったような気もするが、今思えば自分たちの代わりに守屋や万が犠牲になったこととなる。万はあの後も戦う意思を見せていたようだが、結局は捕らえられて八つ裂きにされた。最後まで白い犬が付き従っていたとだけ聞いている。
何となく、今になって春日の顔が思い浮かぶ。「何かを得れば、何かを失う」── 着々と進められる大寺院の建設現場を見に行くたびに、その言葉がひしひしと胸を揺らした。これで良かったのだろうか。額田部の言葉が本当ならば、指揮をとった私が彼らを殺したのでは。
「竹田がね。食事をあまりとらなんだ」
返事をしない厩戸をどう思ったのかは分からないが、額田部が静かに呟いた。
「少し、様子を見ていて貰えないだろうか」
「私でよろしいのですか?」
「当然だとも。歳が同じだからか、お前のことはよく慕っていた」
「しかし私は──」
「戦の責任を探すのは気休めにしかならないよ、厩戸」
額田部は凛とした声で言い放つ。心を読まれたかのようで、厩戸は言葉を失った。
「誰が始めたのであろうが、誰が誰を殺したのであろうが、死んだ数が多すぎる。責任を負うべき者を探して殺したとてね。行き場を失った怒りは多少おさまるかもしれないが、寂しさも悲しさもやるせなさも消えないよ。どれだけ怒っても、悲しんでも、戻らぬのだ。むしろ戻らぬことが肌に染みるのだ」
さらりとした衣擦れを残して立ち上がると、彼女はゆるりと部屋の外へ向かった。
「怒りを背負い、的となるのは大人に任せれば良い。お前は寂しさに寄り添いなさい。お前や竹田がやるべきはそちらだと、大臣も心得ている」
額田部へ言葉を返す間もなく、彼女はさらりと柱の向こうに消えた。厩戸はただただ残り香の揺蕩う風を受けると、一度瞼を閉じて帰路についた。
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