第一章「崇峻天皇」

遺言


 血に染まった夏が過ぎ去り、山が色付き始めた。秋風の走る日暮れの頃、空に七色の雲が現れた。それと時を同じくして、厩戸うまやとの元へ馬子うまこが駆けてきた。四天王の役目を教わっていた止利とりのことも目に入らぬかのように、彼は震えながら頭を床につける。

「み、皇子、お聞きになりましたか」

「何をです?」

泊瀬部皇子はつせべのみこさまが」

 馬子は一度息を飲み込んだ。

「泊瀬部皇子さまが、自ら大王おおきみになるとおっしゃいました」

 なんと、あの泊瀬部が。厩戸と止利は同じ顔をしていた。止利の中にいる泊瀬部は、脆く傷つきやすい子犬のような男だった。それがどうして大王になるなどと公言したのだろう。

 すぐさま宮を出ていった厩戸と馬子が、その後どこに行ったかなど分からない。止利にはついていけるほどの身分も、予想できるほどの知識もなかった。


 しかし、それから五日たった頃だろうか。驚くべきことに、彦人ひこひとが厩戸の屋敷を訪ねてきた。ちょうど、止利が屋敷に呼ばれたのと同じ時であった。

「泊瀬部くんが大王になるって?」

「まだ決まった訳ではありません。それこそ、大兄皇子おおえのみこである彦人皇子さまのご意向を踏まえるよう、合議に上がっていたかと思いますが」

「ああ、僕は面倒くさくて合議に出てなかったからさ」

 彦人はあっけらかんと言った。

「本来の順で言えば、異母とはいえ先の大王の弟君である泊瀬部くんで良いんじゃないかな」

「彦人皇子さまがそうおっしゃるのならば直ぐに決まりましょうが······」

「じゃあ伝えといてよ」

「私からの口では信憑性を疑われかねません。前の大王は私の父ですから」

「それもそうか。大后おおきさき大臣おおおみはなんて?」

 彦人の言う大后とは、亡き敏達帝や用命帝の后であった額田部皇女ぬかたべのひめみこおよび穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこを指すのだろう。後者は厩戸の母である。

「泊瀬部皇子さまご自身からそう伝えられた以上、反論することは無い、と」

 あの日、厩戸と馬子が向かった先はきっと大后たちの元だったのだろう。少しは系図を覚えた止利の横で、厩戸は心を読み取るかのように彦人の表情を見つめていた。対する彦人はにこにこと微笑むだけだった。

「そう、ならいいんじゃない? 僕は大王になる気はないね」

 彦人はやっと立ち上がった。

赤檮いちいによろしく言っといて。守屋を射抜いたって?」

「もちろん。やはり、彼のことをよく分かっておられるのは彦人皇子さまのようです。ところで、茅渟皇子ちぬのみこさまはお元気ですか?」

「あの子は身体が弱いんだ。一体誰に似たんだろうね」

 彦人は厚手の羽織を引き寄せながら退出した。足音が聞こえなくなってしばらくした後、厩戸は些か疲れたように息を吐き出す。

「あの御方は苦手です」

 止利は目を丸くした。厩戸が他人のことをそのように言ったのは初めてだった。

「茅渟皇子さまの件、覚えていらっしゃいますか?」

「確か、戦の最中の話でしたよね。蘇我・物部のうち、勝った方に茅渟皇子さまを任せると」

「まだ幼い茅渟皇子のことをなぜわざわざ引っ張り出したのか。あれは赤檮の力を引き出すためだったのではないかと」

 厩戸は「あくまで憶測です」と笑う。いくら物部が味方の皇子を欲しがっているとはいえ、幼い茅渟皇子を貰い受けても中継ぎが必要になるのは明白である。なので皇子云々以前に蘇我に勝とうと動いていた物部の背を押す理由としては弱い。そして、元から有力になる皇子を味方につけていた蘇我にとってはあまり関係の無い話。では、彦人が動かしたり得る他の人物、それも皇子の幼さや大王の慣習に疎そうな人物は誰か。あの発言の後、表情が大きく変わったのは誰か。厩戸から見ればそれが赤檮なのだと言う。

「あの御方が何を考えているのかさっぱり読めません。中立に立っておりながら、赤檮をけしかけたのは物部を倒すためなのか。それに、病弱だと謳いながら新たな皇子が生まれたとのこと。その割に新しい大王になろうとする素振りは無い」

 止利も聞いていてよく分からなくなってきた。彦人のことは前々から不思議な男だと思っていたが、厩戸も同じ気持ちであったというのが意外だった。厩戸ともあれば、誰の心でも推察出来そうだと勝手に思っていた。

「······うーん、それにしても、なぜ泊瀬部皇子さまは今になってあのようなことを言ったのでしょう。皇子さまは分かりますか?」

 止利の問いに対する厩戸の答えは明確であった。

難波皇子なにわのみこさまが」

 止利の視線が上がる。

「難波皇子さまが、大王になれとおっしゃったからでしょう」

 青空に散った血飛沫を思い出して目を彷徨わせた。あの時、難波が死んだあの時、確かに彼は口を動かしていた。しかし止利には聞こえなかった。

「あの時、難波皇子さまはおっしゃいました。今ここにいる最年長な皇子は泊瀬部皇子さまであり、だからこそ大王になれと。年若い私や竹田皇子たけだのみこさまを頼む、と」

 水紋のように静かな厩戸の声が、屋敷を通り抜ける風に滲んだ。どこか雨の香りがする。眩しいほどの太陽が恋しくなり、止利は無意識に手を擦る。

「泊瀬部皇子さまは、ずっと悩んでおられたのでしょう。やっと決めたのでしょう。彼の背中を押したのが誰であれ、私はそれで良いと思います」

 それっきり、厩戸が泊瀬部の話をすることは無かった。難波の言葉を聞いていて、あの戦の惨状にも耐えたのか。やはり、止利から見た今の厩戸は大人びて見えた。戦が始まる前よりずっと、大人びて見えて仕方がなかった。


 それから数日、飛鳥に新たな大王が誕生した。後に崇峻天皇と呼ばれる、泊瀬部大王であった。









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