──第二部・日のいずる国──

幕開け

増長天


 湖の畔に馬の嘶きがこだました。背から舞い降りた河勝かわかつは、真っ直ぐに目の前の館へ足を向ける。中の一角に、白布の張られた部屋があった。中央に並べられているのは二つの棺。納められているのは似ても似つかぬ表情の兄弟だった。先の戦で年下の皇子を庇った難波なにわ春日かすがの玉体は、後見であった春日小野仲若子かすがのおののなかつわくごの元へ届けられた。彼の娘で、二人の母でもある老女子おみなごは、棺に被さるようにして眠っている。仲若子はそんな娘をただ静かに見つめるばかりであった。

「お二人を御守り出来ず申し訳ありません、仲若子さま」

「なんのなんの。河勝はよくやってくれたと思う。大連おおむらじの首をかき切ったのだろう?」

 仲若子はへにゃりと笑って部屋から出る。黙祷を捧げた河勝は、わずかな死臭を振り払うように仲若子へ続いた。

「ただ弔いに来てくれたのかい」

「私としてはそのつもりでしたが······何か」

「いやね、あの子のことだ」

 内心、その話をされるために来たところもある。あの子と呼ばれた幼子の真相を知っているのは、これで河勝と仲若子だけになってしまった。難波か春日の片方でもいたら心持ちが違っただろうか。しかし、この状況で仲若子一人に背負わせるほど単純な問題でもなかった。

「······次の大王おおきみは誰だろうね」

「順でいえば先の大王の弟君である泊瀬部皇子はつせべのみこさま」

「彼は落ち着いたのかい」

「未だ震えておいでです」

「年でいえば彦人大兄皇子ひこひとのおおえのみこさまかな」

「しかし彼は大王になどならぬの一点張り」

「では竹田皇子たけだのみこさまと厩戸皇子うまやとのみこさまくらいしか残らないのじゃないかい」

 河勝は答えなかった。二人はまだ若すぎる。いよいよ大王選びは難航すると見えた。

「······皆の前であの子のことを言うべきかい」

 仲若子は一言聞いた。河勝はしばらく黙った後、ゆっくりと首を横に振った。

「誰が大王になるにせよ、その次は弟君かご子息になるかと」

「では、このまま小野で預かっていていいのか」

「そうするのでしたら」

 仲若子が足を止める。薄暗い廊下で、河勝が今日初めて自ら提案をした。

「私に任せてくださいませぬか」

「預けろと?」

「はい」

「どうするのかね」

「ひとまずは山背やましろにて私の手伝いでもしていただきましょう。そして成長なさった頃合いを見て飛鳥へ連れてゆこうかと」

「飛鳥へ?」

「ええ、この国の外を見てもらうためです」

 河勝の瞳には迷いのない光が宿っていた。この男は、未来を見据える時にこのような目をする。仲若子は理解していた。

「知っておられますか? あの子は百済くだら新羅しらぎの言葉を耳で覚えている」

「······まさか。まだ八つだ」

「本当ですよ」

 試してみますか、と河勝は言う。仲若子は半信半疑だったが、屋敷の裏へ移動すると一人の名を呼んだ。

妹子いもこ、ちょっとおいで」

 裏で薪をまとめていた少年が二人こちらを向いた。そのうち、怪訝そうな顔をした方が河勝を見て嫌々近寄ってくる。

「やぁ、久しぶりだね」

「······」

 妹子と呼ばれた少年は、河勝の挨拶に顰め面を返した。

「少し質問してもいいかな」

「何ですか」

『この言葉は分かるね?』

 新羅の言葉だった。妹子はいよいよ眉を寄せたが『はい』と答えた。

『どこで覚えたのかな』

 今度は語尾が変わった。百済の訛りだった。

『商人、来る、会話聞いた』

 たどたどしいが同じ訛りがあるのは明白だ。河勝はほらねと言いたげに仲若子へ振り返る。

「······妹子、飛鳥に行く気はあるかい?」

「何故そんなことをおっしゃるのです?」

 唐突な父の言葉も飲み込んだ。飲み込んだ上で、裏にある真意を探りたいらしい。

「河勝が色々なことを学ばせてくれるらしい」

「私は河勝が好きではありません」

「こ、こら!」

「あはは、ひどいなぁ」

 素直すぎる反応に河勝は肩を揺らした。しかし、妹子は続けて仲若子を見上げる。

「でも飛鳥の方が、ここより幾分か学問の幅がありましょう。それは気になります」

「ふむ」

 仲若子は少々迷うような素振りを見せた。暫く揺蕩うように飛ぶ蝶を見つめていたが、一輪の花に止まったのを見て口を開く。

御田来みたき

 妹子の横で心配そうにしていた少年が背筋を伸ばした。仲若子はしゃがみこむと、彼の頬に手を伸ばす。

「共に行ってはくれないかい」

「えっ、ぼ、僕?」

「そうだ」

「でも、一族の名もありませんし妹子よりトロいし」

「君はもう十分小野の子だよ。妹子の舎人とねりだと思えばどうだい」

 御田来は河勝が拾ってきた孤児みなしごだった。妹子の他に少年もいないので、遊び相手として仲若子が育ててきた。

「······御田来が行くなら喜んで行きます」

 妹子がしゃんと前を向く。御田来は少し恥ずかしそうにすると、「なら、僕も飛鳥に行ってみたいな」と頬をかいた。

「じゃあ、来年の春頃にまた迎えに来よう。それまで準備しておいて。心変わりしたならそれでもいいから」

 少年二人を残して、河勝は翌日に春日の地を立った。その前夜、もう一度だけ仲若子を訪ねている。

「良かったのですか? 御田来くんまで」

 河勝に問われて仲若子は笑った。どこか寂しげな笑みだった。

「河勝が言うことは信じている。こんな老いぼれの横に置いておくよりも君に任せた方がきっと広い世界を歩める」

 続けて仲若子は言った。

「探しているんだろう? 増長天を」

 河勝は口を綻ばせる。止利が作り残した最後の四天王像。それを持つべき人間を、彼は既に探し始めていた。













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