第一部・終幕

約束


 突き抜けるような青空に高笑いが響いた。これは友人である勝海かつみの声か。それに気づいた時、状況は容易く呑み込めた。

 別に首を突っ込む義理もないのだが、ここは自分たち物部もののべの本拠地である。子供なりに一丁前のことを考えて、他氏に騒がれては堪らないのだからと、守屋もりやは声の鳴る方へ足を進めた。

「んー」

 深く煌めく蒼を背景に、自分より小さな子供が手を伸ばしていた。

 この渋川しぶかわの地からは海がよく見える。潮鳴りこそ聞こえないが、風に運ばれた磯の香りは確かな豊かさを孕んでいた。

 潮風に弄ばれるかのように、白布が枝に舞っている。物部の屋敷のそばにある楠木だった。悠々と広がる枝の中でも、布があるのは一番下のもの。しかしながら、必死に伸ばされた彼の指はあと少しのところで届かない。

 呆れたものだ。普段からチビだとは思っていたが、あそこまで小さかったとは。

「何やってんだ馬子うまこ

 一つ声をかけてみる。振り返った頬は桃のように紅く、よほど背伸びをしたのだとみえる。守屋を視認した彼はますます頬を赤らめると、バツが悪そうに唇を尖らせた。

「また虐められたのか? 相変わらず鈍臭いな」

「うるさい······守屋には関係ないもん」

 幼い表情をするくせに強がってばかりいる。まるで自分を大きく見せようとする鳥のようだ。

 背が低いことを気にしているのか、彼は子供扱いされることを嫌っていた。しかし、大人になろうとする行為自体が、子供のやることだとは気づいていないらしかった。そういうところが甘いのだと言いたくなるが、言えば怒るだろうから飲み込んでやる。怒ると面倒臭いのだ、この男は。

「······ん」

 先程から視界にチラつく白布が鬱陶しいので取ってやった。背丈が頭一つ分違う守屋にとって、枝に手を伸ばすことなど造作もない。楠の香りがついた布を差し出せば、馬子は気まずそうに受け取って胸の前で握りしめた。何か言いたげにしていたが、結局は唇を閉ざして俯いてしまう。大方お礼を言い損ねたのだろう。それが分からない守屋ではない。

 蘇我が急成長を遂げてからというもの、疎ましく思う氏族の子からからかわれてばかりいるようだった。きっと今日もそうなのだろう。先程聞こえた勝海の声を聞く限り、白布を枝にひっかけたのは彼らしい。勝海には虎の威を借る狐のようなところがある。大方、ここが物部の本拠地ゆえに大きく出たのだろう。相変わらずな男だ。既に姿が見えないので、逃げ足もはやいらしい。

 しかし、馬子も馬子で言い返せば良いものを。勝海は反撃すれば引く男だと思う。何も言わずにやられっぱなしでは蘇我の行く先が思いやられた。それ故に、目の前の小さな頭に問いかけてみたが、「······文句は言った」などとますます唇を尖らせてくる。

「じゃあやり返せ」

「······暴力は嫌いだもの」

 ため息が出そうだった。息は押し殺したはずだったが、思わず「これだから新参者の蘇我は」などという言葉が口をついて出る。

 今の蘇我は、こちらが敵視をするほどに大きくなろうとしている。それは馬子の父たる稲目いなめが努力しているからだろう。恐らく、彼は覚悟を決めている。それなのに息子がこれとは情けない。力を持たずして大きくなれるものか。国の中枢を担いたいのならば、これしきの喧嘩で泣くものでは無い。ほんの少し手をあげるだけではままならぬ世界がそこにあるのだ。それなのに、子供の喧嘩でさえやり返したくないというと、蘇我を背負う気概などありゃあしないと思った。

「いいか、いざとなったら相手を傷つけてでも守らねばならないものがある。それが国を支える豪族だ」

「でも人を斬るのはダメだと思う」

「ダメも何もないんだ。そうじゃなきゃ自分が喰われるぞ」

 親切のつもりで言ってやった。馬子は一度俯いた。正論を言われて気まずくなったらしい。が、直ぐに視線をずらすと「父上が」などと口を開く。

「父上がよく言うの。守屋と仲良くしておきなさいって。そうすれば人を斬らなくても済むかもって。でも守屋の父上は僕のこと嫌いみたいだからさ、どうすればいいと思う?」

「······」

 ふと、腑に落ちたことがあって言葉を返すのを忘れた。昔から不思議だったのだ。なぜこの男が自分に引っ付いてくるのか。守屋は物部の後継である。馬子ら蘇我の寺を焼き、敵視している物部の男なのである。なのに、なぜ蘇我の後継である馬子が自分を慕ってくるのか分からなかった。

 しかし今の言葉で頭が晴れた。稲目としては、物部に並んで国を支える二本柱になりたいのだろう。共に失脚させた、かつての大伴おおとものように······。

 ところが、馬子はそこまで理解していないようだった。稲目がそう言うからそうしている。ゆえに、守屋本人に「どうすれば良い」などと聞いてくるのだろう。守屋としては、答えを作ってやる気などサラサラなかった。

「それを考えるのがお前の役目だ」

 背を向けて引き返せば、後ろから名前を呼ばれた。振り返ってやる気もないのでヒラリと片手だけ振ってやる。彼は一度しか名を呼んでこなかった。何度呼んでも無駄だと思ったのだろうか。叱るべき態度で以て、考えを持って、名を呼んでくれるのならば応えるものを。

 

 しかし、それから二度目の夏の日にまた楠木の下で名を呼ばれた。一層背が伸びた守屋に対し、馬子は小さなままだった。それでも、こちらを見上げる瞳には、些か大人びた真っ直ぐな光があった。

「······前の続き」

 ぽつりと呟かれた。

「守屋と仲良くしたいけど、父上たちは仲が悪いから······どうすればいいか考えたの」

 ああ、お前の役目だと言ったから律儀に考えてきたのか。そこは相変わらず子供らしい。考えの程度などたかが知れているが聞いてやっても良いと思った。

 馬子はしばらく黙り込んでいたが、やがて足元に揺れる木漏れ日を見つめながら言葉を落とす。

「あのね、凄く単純だけど······。父上たちの仲が悪くても、僕たちは仲良くすれば良いと思うの」

 やけに小さな声だった。

「でもほら、僕は守屋みたいに大きくないし、力も弱いし、歩くのも遅いし······守屋からすれば、きっと頼りないんだろうけど······」

 弱々しい声が一度途絶えた。海風が通り過ぎる間黙り込んでいた馬子だったが、上衣の裾をギュッと握りしめると意を決したように顔を上げた。

「で、でも! いつか強くなるから」

 凛とした声に驚かされる。

「いつか絶対守屋に追いついて、勝てるくらいに強くなるから······だから、その時は······」

 続いた言葉に、守屋は目を丸くした。


 ──隣を歩くって約束してくれる?


 声を失った。

 馬鹿馬鹿しい。あまりに幼稚で馬鹿馬鹿しい。そんな口約束をしたところで叶えられるわけなかろう。ただの人と人では居られぬのだ。対立する氏族の後継である以上、過去も未来も周りの視線も全てが一筋縄ではいかなくなる。そんな中、いつまでも純粋な友達で居られるものか。

 守屋は分かっている。兄や弟の代わりに家を継ぐと決めた以上分かっていたはずなのに、理想に塗れた彼の言葉が、泣き出しそうなまま真っ直ぐに向けられた瞳が、二人の望む未来を示しているように見えて仕方なかった。拒むことなど出来なかった。まだ物部になりきれぬ幼いの心底が、彼と共に歩む未来に一縷の望みをかけてしまったから······。


 馬子の瞳が潤む。返答を怖がっているくせに、目を逸らすことは決してしなかった。守屋は笑った。普段笑わない分下手くそな笑みだった。しかし、目の前の不器用な泣き顔とは良く釣り合っている。

 だからこそ、守屋は信じてみることにした。いつかこの男が自分と並ぶようなことがあれば、共に歩いてやろう。互いにまだ青く脆いのだから、針の先ほどの希望に未来をかけてみたい。


 そんな気持ちでもって、守屋は真っ直ぐに言葉を返した。風を切る白い矢のように、迷いのない声であった。



 ────ああ、約束だ。









  ──第一部「丁未の乱」・了──

















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