飛ぶ鳥の如く
なだらかな山々の背に月明かりが灯る。
小川の傍で虫が涼やかに鳴くのを聞いて、飛鳥に帰ってきたのだと実感する。
戦が終わって三日が経った。にぎやかな宴も過ぎ去り、今はただ、喪失感だけが夏草と共に揺れている。
この空の下に守屋はいない。月に映えるであろう春日もいなければ、寂しい夜に声をかけてくれる難波もいない。しかし姿が見えないだけでまだどこかで生きているのでは······という気がしてならず、小川で波打つ月光がより冷たく感じた。
「こんばんは」
振り向くと調子麻呂が居た。
「厩戸皇子さまと蘇我大臣がお呼びです」
二人に連れられて馬子の屋敷へと歩き出す。道中、調子麻呂がおずおずと頼み事をしてきた。黒駒に渡していた馬具を持っていても良いか、とのことだった。あれは厩戸や調子麻呂に贈った品だ。もちろん、好きに使ってくれと答える他ない。
「もう新しい子を迎え入れなければなりませんね」
調子麻呂が目を伏せる。事務的な言い方だったが、どこか乗り気ではない様子だ。駒が何も言わずに調子麻呂の背中を擦る。
「······そういえば、黒駒に嫌われた時も駒さんが背中を撫でてくれました」
思い出したように調子麻呂は笑った。
「調子麻呂さんでも黒駒に嫌われたことが?」
「初めて会った時ですよ。母から貰った香が服に染み付いていて、嫌だと怒られちゃいました。でも、すぐに仲直りしてくれましたよ。この国で出来た初めてのお友達です」
この国という言葉が引っかかった。二、三瞬きをして問いかけると、思いもよらない答えが返ってくる。
「私の生まれは
やけに美しい発音だった。
「
その後、黒駒の世話役という形で厩戸皇子の舎人となったこと。そのために、駒から剣術を学んだこと。調子麻呂は訥々と語ってくれた。横で聞いている駒は懐かしそうに、時に褒められ照れたように視線を逸らす。
「······夢でした。黒駒に乗った皇子さまの姿を見るのが」
調子麻呂が最後に付け足す。
「勇ましくも美しい二人の姿が見られたこと、幸せと思わなければなりませんね」
腰に下げられた手綱の影が地面に揺れる。黒駒のために編んだ春の日がひどく懐かしく思えた。初めて見た厩戸と黒駒の記憶は、穏やかな野の中に留まったまま。そこから抜け出さんとする皇子としての厩戸を、引き止めたくもあり、支えたくもある。
気がつけば、甘樫丘から随分と遠くまで歩いてきてしまった。馬子の屋敷の手前で一度だけ振り返る。黒々とした丘に灯る品部たちの松明が、小さな光で飛鳥を彩っていた。
自分はその中の一人で在るべきだろうか。何度も浮かんだ不安が過ぎる。しかし、不思議と恐ろしさは感じない。怖かったはずの見えない未来は進まざるを得ない未来なのだと、戦に立ち向かう皆を見て知ってしまった。どちらの道に進むとしても、止利は厩戸のため、飛鳥のための一人で在りたいと願う。どんなに小さな一人でも良い。それが確かな足場になるからこそ、鳥は空高く羽ばたける。
今はそう信じていることが、精一杯の抗いであり、未来に打ち勝つ剣でもあった。力のない自分に与えられた刃を何と捉えるべきか、戦の終わった今になって問いかけられているような心地もする。しかし、それが人を救うための剣であるべきことだけは、生涯忘れまいと心に誓った。
馬子と厩戸の元へ行く直前、仏堂の前を横切った。格子の奥に見えたのは、かつて馬子が厩戸に託していた、背丈ほどはあるあの仏像である。久しぶりに見えた穏やかな顔が月影に晒されて煌々と光る。闇に抗う篝火よりも、ずっと夜に馴染む眩さを持っていた。願うならば、あの光を生み出す剣を持ちたい。タコにまみれたこの手でよければ、いくらでも差し出す覚悟はあった。それは鞍作部としてか、はたまた仏師としてか。行き先はとうとう煮え切らなかったが、手を引かれた以上歩みを止めたくはない。
選んだ先に、切り捨てた先に、どんな自分がいるのだろう。まだ見ぬ未来は暗いままだが、甘樫丘の篝火が、仏堂から漏れる仏の光が、一つの道標となる気がした。
日の出の気配はまだまだ遠い。嵐過ぎ去る飛鳥の夜は、静々と更け始めたばかりであった。
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