駒の尾


 厩戸は必死に黒駒くろこまを走らせた。

 ここでもたついていたら、命懸けでよろずに立ち向かっている調子麻呂に申し訳ない。

 河勝かわかつ赤檮いちい守屋もりやの首を勝ち取れただろうか。馬子は狙われていないだろうか。そんなことがぐるぐると頭を駆け巡っては、視界をよぎる木の葉の群れと混ざり合った。


 どれだけ走っただろう。背後から軽い足音が聞こえた。聴覚に長けた厩戸には分かる。調子麻呂のものだった。

「皇子さま!」

 黒駒がほんの少し足を遅める。追いついてきた調子麻呂が頬に赤い線をつけていたので、少々心配になった。

「万は?」

「恐らくまだ追ってきています。すみません、私では食い止められず······」

 万がいた方向を見つめるがまだ影は見えない。

「とにかく先を急ぎましょう。恐らくこの先に陣が······」

 その時、真横のくさむらでカサリと小さな音がした。この音だと相手は一人だろうか。気づいてしまった厩戸だけが、身体を反対側に寄せる。

「調子麻呂、右に」

 言い終わらないうちに鋭い風音が耳を劈く。厩戸が身につけていた鎧の紐がちぎれて風に舞った。ボタボタと右肩の小札こざねが外れ、地面に土埃を巻き立てた。衝撃に身を打たれ、厩戸は黒駒の背から崩れ落ちる。

 調子麻呂が下敷きになるように倒れ込んだ。見れば、右斜め前方から放たれた矢が背後の木に突き刺さっている。有り得ないと思った。音が聞こえたのは確かに真横だった。それも一人分のものだ。前方にも人が居ただなんて考えられない。

 速まる呼吸の中で叢を見据えれば、緑の合間にちらりと縄が覗いていた。

 なるほど、縄を動かして自分の居場所を錯覚させたのか。用意周到かつ賢いやり方に身震いがするようだった。

 一体誰だと目を凝らした瞬間、弓を引き絞る音がした。その先に見えた万の顔に驚くのも束の間、厩戸の額目掛けて鋭い鏃が解き放たれる。


 間に合わない。そう思った。


 万の殺気で、地面に足が縫い付けられたかのようだ。ある時は咄嗟に動けたかと思ったら、今度は全く動かなくなる。人の身体とはこれほどまでに不可思議なものかと、また余計なことが頭に浮かんだ。

 心は極めて冷静にもかかわらず、近づく風音に思わず瞼が閉じた。

 調子麻呂が厩戸を庇おうと前へ出る。しかし、これでは調子麻呂が殺られてしまうだろう。

 時が、ゆっくりと流れる大河のように感じた。太陽の光だけが血潮を浮かび上がらせる瞼の奥で、ただ風鳴りに怯えることしか出来なかった。


 ところが、ヒンと馬の嘶きが光を揺らした。瞼の向こうに透けた影が、瞬時に二人を包み込む。突然の出来事に目を開けば、調子麻呂の視線の先で黒駒が身体をくねらせていた。風に散るたてがみと、日を受けて翻るぬばたまの尾。ポタポタと地面を濡らす紅が受けた矢の数だけ増えていく。黒駒の名を呼ぶ調子麻呂の悲痛な叫びが耳を劈くようだった。

 矢を受け止め続ける黒駒は、一向に逃げ出す様子がない。万はどうにか厩戸を狙おうとしたが、全ての矢が黒駒の体躯に吸い込まれていった。

 次第に土を蹴る大勢の足音がして、南方から蘇我の部隊が現れる。先頭にいるのは先日護衛をしてくれた膳部傾子かしわでのかたぶこだろうか。守屋が撃たれたとの話を聞き付けて、主戦場へ応援に来たらしかった。

 万はそれに舌打ちすると、不利と見たのか身体を翻して森へと姿を消す。こちらに気づいた傾子は驚いた顔をすると、すぐさま馬を止めて駆け寄ってきた。

「厩戸皇子さま? これは」

「捕鳥部万にやられました。彼が来たということは主戦場も総崩れなのでしょう」

「それは······。と、ともかく、私の馬にお乗りください。主戦場に人が沢山いるのならば、私が皇子さまを陣へお送りいたしますゆえ」

 傾子が馬を譲り、厩戸を乗せようとする。しかし、ドサリと音を立てて黒駒が倒れ込んだ。

 ついて出た名前にも反応はなかった。普段なら嬉しそうに鼻を鳴らすのだが、嘶き一つあげようとしない。流れる血潮が青い草の合間を流れ、乾いた土を濡らしていく。艷めく夜のような自慢の毛並みさえ、血に塗れ、風に晒され、虚しく毛先を逆立てるだけだ。

 厩戸は積年の友を亡くしたかのような衝撃を受けた。いや、確かに彼は幼い頃からの友だったのだ。

 初めて強請って貰った馬だ。共に大きくなったらば、一緒に飛鳥を駆け回るのだと夢に夢見て願った馬だ。ここに成長した厩戸が居るというのに、二人の遠出はこれからだと言うのに、どうして夢見たはずの体躯のまま、黒駒は横たわっているのだろう。

 呆然として膝をつきたくなった。しかし、代わりに調子麻呂が黒駒に手を伸ばした。厩戸はそこで踏みとどまる。

 そういえば、調子麻呂に出会ったのは黒駒がきっかけであった。彼は黒駒の世話をせねばならぬからと厩戸の元へやって来たのだ。そう思うと、黒駒と過ごした年月は厩戸よりも一層長い。

 それに気が付いてしまったがために、調子麻呂よりも悲しむことが出来なくなった。難波と春日が亡くなった時もそうだった。泊瀬部や竹田があまりにも悲しむから、不思議と心の波が引いていってしまったのだ。確かに穴が空いたはずなのに、目視することすら出来なかった。いや、許されないと思い込んでしまったのだ。

「皇子さま、参りましょう。ここは危のうございます」

 傾子がおずおずと声をかけてくる。一度調子麻呂に声をかけたが、黒駒に縋ったまま首を横に振るだけだった。後で迎えに来ると約束して、厩戸は傾子の馬に乗った。栗色の毛並みをした背の高い馬であった。黒駒とは違う肌の硬さが、止利の作ではない鞍の重みが、ひしひしと足から込み上げては胸の奥にわだかまりをつくる。


 ふと、主戦場の方で歓声が湧き上がった。どうやらこちらが勝利したらしい。その賑やかさに釣られるように一度だけ振り返る。青々と揺らめく木漏れ日の隙間で、ぽつりと黒駒に寄り添い続ける調子麻呂の背中がただ波のように揺らめいて遠のいていった。









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