捕鳥部万
後は無駄に動いても邪魔になるだけだろう。そう思い、厩戸は後方へ退いた。ぶつかり合う兵たちを、ただ調子麻呂と共に見守っていた。
しかしその時、ふと
甲高い音を残して厩戸の前を木片が掠めた。矢の一部だった。目を開く厩戸をよそに、調子麻呂が黒駒の手綱を引く。
「皇子さま、お逃げを······」
調子麻呂が言いきらないうちに背後の森から男が飛び出す。それは昨日も奇襲を仕掛けてきた
「守屋さまを射れと命じたのはお前か」
そこに気の良い青年の顔などなかった。あるのは主人を殺された憎悪である。万にとって、守屋が敗れるなど言語道断。信じたくもない結末だった。しかし、この賢い青年には分かってしまうのだ。自分たちが負けたのだという確かな現実が。
「皇子さまを傷つけることはこの調子麻呂が許しません」
短剣を持ち直した調子麻呂が前へ出る。万は少々笑ったようだった。小柄とはいえ、いつも守屋と共に剣を振るってきた自分が細身の調子麻呂に負けるはずなどない。しかし、彼に勝ってどうするのだという思いがじわりと胸に染み出てゆく。
負けるつもりはなかったのだ。軍事に長けた物部が、蘇我になど負けるはずがなかった。今だってそうだ。守屋が死んだとは限らない。もしかしたら、屋敷の中で懸命に剣を振るっているかもしれないではないか。しかし、もし目の前の厩戸と調子麻呂を倒した先に守屋がいなかったら、自分は何を目指して歩けば良いのだろう。
気がつけば、厩戸目掛けて弓を引いていた。未来のことなど考えていてもキリがない。せめて、彼だけは射抜いてしまいたかった。そのためにこうやって対峙しに来たのだ。彼が馬子を奮い立たせる鍵であることも、今後の蘇我の力の源になることも、全て分かっていた。守屋がかつて、そう言及していたからである。守屋が言うのならばそうなのだろうと思った。無口ながら、彼の見立てはいつも正しい。
周りから人が消えていった今、蘇我に未来を与えぬためにはこの皇子を殺すしかないと思った。それが、ここに立つ自分に出来る精一杯である。
前線から離れているためか、厩戸を守るのは調子麻呂一人である。ここで万へ切りかかろうと前へ出ては弓に対して不利。それが分かっているからこそ調子麻呂は動けなかった。それが分かっているからこそ、万は力の限り弓を引き続けた。
「皇子さま、南の森へお逃げ下さい」
調子麻呂が囁く。
「皇子さまが動けば万が矢を放ちましょう。それを必ず跳ね除けてみせますから、今すぐ黒駒を走らせてください。彼は皇子さまの言葉が分かる子です」
厩戸は馬上から調子麻呂を見下ろす。艶やかにまとめられた髪から覗く首筋には、汗が滲んでいるようだった。思えば、彼一人で剣を振るうところを見るのは初めてかもしれない。薄々彼の出自にも気づいていたからこそ、厩戸は背中を押すように頷いた。
「調子麻呂なら出来ますよ、必ず」
そう一声かけると黒駒の胴を撫でる。そして思い切り手綱を引くと、北に向けて走らせた。
「!」
万が厩戸目掛けて矢を放つ。守屋の右腕らしく、確かな線を描いて厩戸を狙っていた。
しかし、厩戸を乗せた黒駒はすぐさま南へと進路を変える。それを分かっていたかのように、調子麻呂は矢を北へと払い除けた。そして不意をつかれた万を牽制するかのように、胸に提げていた小刀を投げつける。彼が常に小刀を携帯していることは厩戸も知っていた。それゆえに、彼なら万の追撃をかわせると信じていた。
小刀が万の右腕を裂く。万が顔を上げた時には、調子麻呂は既に木の影へと走り去っていた。しかし、それで諦める万ではない。血の流れる腕で弓矢を持ち直すと、再び力いっぱい弦を引き絞った。
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