守護神


 守屋ただ一人を狙って赤檮が弓を構える。ギリギリと絞られる弓が強くしなり、勢いをつけて矢を放つ。それは確かに守屋の方へ飛んで行くが、何度放ってもなかなか狙いが定まらない。あともう少しなのだ。しかしはためく軍旗を見る限り、風が強くなってきたのだろう。横風に煽られてバランスを失うのか、矢は思い通りに飛んでくれない。

 元々前線にいたからか矢の数は少なくなっていた。三本放っても上手くいかず、残り二本のところまで追い込まれる。

 厩戸もまた悔しかった。自分は赤檮に運命を託すしかないのだ。皇子というものは崇められやすいものの、結局人間としては無力なのだと実感した。普段は畑仕事をしているであろう雑兵たちでさえ慣れない剣を握っている。なのに自分には命令することしか出来ないのだろうか。難波も春日も身を呈して誰かを守り抜いたのに、自分はそれを眺めることしか出来なかったのだろうか。


 苦しげに眉を寄せた時、鎧との合間からカラリと音がした。見れば、調子麻呂に渡す予定だった作りかけの増長天像が一つ顔をのぞかせている。

「······」

 ふと、その増長天と目が合った気がした。どこか冷たくしなやかな目元は誰かに似ているような気もする。戦を見据えるかのような強い瞳を受けて、自然と手は伸びていた。親指の腹で顔の土埃を拭き取ると、おもむろに空へ掲げてみせる。押し寄せる物部の波の中で、その増長天だけはあるべきところへ導いてくれるような気さえした。

 ヒャンと音を立てて赤檮の矢が視界をよぎる。それはやはりあと一歩のところで風に押される。しかしそこで目を開いた。厩戸には見えたのだ。掲げた増長天が物差しとなり、風によろめく矢の軌道が。

「赤檮」

 赤檮が手を止めて厩戸を見る。

「あと五尺左を狙いなさい」

「······は」

「目の良い貴方なら見えるでしょう。楠木の手前にある軍旗の右あたりを狙って。あとは風の流れが運んでくれます」

 赤檮は少し驚いたようだったが、瞳だけで頷いて最後の一本を番える。それを見ていた馬子と目が合うと、厩戸はにこりと微笑んだ。

「大臣、仏に誓いましょう。私たちならきっと出来ます」

「しかし······」

「もう進みましょう。ここで逃したとて、守屋殿は貴方の知っている守屋殿ではいられないはずです」

 馬子は一度守屋へ目を移す。人波に隔てられた二人の距離は、思っていたよりも遠くなっていたようだ。きっと今の自分に守屋の名を呼ぶ資格などない。ここにいるのはあくまで蘇我大臣である。そう思ってしまったがゆえに、馬子には静かに目を落とすことしか出来なかった。

「分かった。仏に誓おう」

 一度伏せた瞼を持ち上げると、馬子は真っ直ぐに厩戸を見つめた。

「これは未来のための戦だ。そう信じていなければならない」

「ええ、私たちはそうでなければなりません。それゆえ仏に宣言しましょう。我々は正義ゆえに勝つのだと」

 厩戸は、日を照り返す豊かな角髪みずらに増長天像を差し込んだ。それは柔らかな白をたくわえて、真っ直ぐに守屋を見据えている。その視線に託すかのように、二人同時に手を合わせた。

「我々が勝ったあかつきには、必ず四天王のための寺を建てましょう」

「我々を勝たせてくださったのならば、必ずや諸天王と大神主のために寺を建て、三宝をこの国に広めましょう」

 厩戸と馬子の声が重なり、土煙沸き立つ青い空へと飛んでいく。先から降り注ぐ陽の光が、赤檮の矢先を煌々と照らした。

「赤檮」

 手を合わせたままの厩戸が短く命じる。

「やりなさい」

 目一杯引かれた弦がビンと弾けた。風を割いて進む一本の矢が守屋の五尺左へと飛んでゆく。

 まるで行く手を阻むかのように、轟轟と唸る横風が軍旗をはためかせていた。しかし、それも厩戸の目論見には敵わない。風に煽られた矢の先が······風に煽られていたからこそ、しかと守屋に重なった。

「守屋さま!」

 物部の陣営で声が上がる。しかしもう遅い。的確に鎧の合間へ差し込まれた鏃が守屋の肌を突き破った。見開かれた守屋の目に、煌々と照る太陽が映り込む。

 まるで静止画でも見ているかのようだった。守屋の身体が地上目がけて崩れ落ちるのを、馬子も厩戸も静かに見つめ続けた。


 不意に守屋の目が馬子をとらえる。そこに映った馬子の顔は、はたして守屋の知る彼であっただろうか。

 しかし、ただ一瞬だけ、守屋の目が笑ったのがわかる。それは諦めによる失笑か、はたまた馬子に対する嘲笑か。今の馬子には、もう守屋の真意を読み取ることなど出来なかった。馬子はそこで初めて気がついた。自分も守屋も、いつの間にか互いのことが分からぬほどに変わってしまったのだと。

 それに気づいた時、馬子はやっと彼の名を呼んだ。大連おおむらじではない、それは確かにという一人の名前であった。

 稲城の向こうに守屋の瞳が消える。直前に伏せられた瞳の奥で、彼は何を思ったのだろう。


 しかし、そんなことは未来に関係の無いこと。馬子にとって、もう二度と考えずとも良い話なのだ。

 そう思うと自然に笑みがこぼれた。何がおかしいのかなど分からない。しかし守屋の消えた物部の城など恐るるに足りぬ。そんな根拠の無い自信だけが馬子の心を取り巻いていた。

 手を止める兵たちの間で勢いよく顔を上げる。もはや自分が自分なのかさえわからない。しかし、馬子は確かにどよめく敵方を見据えると、声高らかに言ってみせた。

「物部守屋は討ち取った! 必ず首を取って参れ!」

 再度響き渡った進軍の合図に、豪族たちが鬨の声をあげる。気圧された様子の民たちもそれに続いて声を張った。

 馬上で前を見据える馬子は、小柄さなど感じさせないほどに大きく見える。厩戸はそんな彼の背中に、精一杯に羽ばたかんとする飛ぶ鳥を見たような気がした。

「赤檮、河勝」

 馬子の背中に導かれるように、厩戸は二人の名前を呼ぶ。

「必ず守屋の首を持ってきなさい。仏を守るのはあなた方です」

 二人は不意をつかれたようにしたが、すぐさまもちろんと言いたげに頷いた。分けられた四天王像を照らす光が、もうじき南に昇ろうとしていた。






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