仕組まれた罠


 守屋は本気だった。

 本気で馬子を殺そうとしていた。


 放たれた矢はあまりにも強く、風を裂いて突き進む。やっと気づいた馬子が目を見開くが、瞳に映った守屋の顔は見たことも無いほどに静かだった。矢を弾き飛ばさんとする大伴の剣がギラギラと太陽を反射している。

 厩戸には何も出来なかった。ただ馬子のそばに駆け寄り、剣を抜くことしか出来なかった。初めてだったのだ、この腕で剣を支えたのは。手にしたものはあまりにも重く、今にも馬から落ちそうになる。

 赤檮いちい河勝かわかつであれば、いとも簡単に馬子を庇うことが出来るのだろうか。そう思った矢先、馬子が厩戸を守るように剣をとった。厩戸に矢が飛んでいかぬよう、大伴と共に前方を塞ぐ。

 ああ、思うところは一緒か。この緊迫した空気の中でもそんなことを考える。いつもいつもそうだった。日常の中でも夢の中でも無駄なことばかり考えてしまう。しかし、それが自分にとって無駄ではなくなった時、きっと何か気づくものがあるのだろう。そう思うがゆえに、厩戸は大伴の守りを信じ、ただただ馬子の後ろに隠れることにした。


 守屋が放った矢が迫る。風の音が鼓膜に突き刺さるようだった。逃してはならない一瞬の時を見計らって、大伴が手に汗を握る。やはり守屋が弓を引いただけはある。正確に馬子を捉えて逃がそうとしない。一か八かと皆が息を呑んだ時、それは突然訪れた。

「······なに?」

 守屋の矢が風に煽られて若干向きを変える。そのまま勢いを落としてゆくと、大伴の剣に弾かれた。

 守屋は信じられないと言いたげだった。確かに、確かにこの腕で馬子を狙ったはずなのに······。

「なぁんだ」

 ニヤリと笑ったのは前線にいた河勝だ。彼はおもむろに割れた矢をひろいあげる。

「意外と上手くいくじゃない。半分ダメ元だったのに」

 よく見れば、矢の羽の向きがちぐはぐになっていた。戦闘が三日も続けば武器も減る。守屋が手にした矢のひとつは、あの日河勝が仕組んで作らせた不良品であったのだ。

「大臣はやはり運がおありだ。あの守屋がこれに気づかなかったなんて」

 河勝が目を細めるやいなや、守屋が「放て!」と雄々しく声を上げた。その瞬間、先程までの喧騒が蘇り、矢の雨が降り注ぐ。

「何としてでも馬子の首は頂く! この物部が負けると思うてか!」

 守屋は少々焦りを感じたようだった。やはりあそこで馬子を射落とすつもりだったのだろう。それだけ鍛錬をしてきたのだ。あの状況で、確実に馬子を貫くために······。

「まずいね。このままじゃまた撤退になりそうだよ」

「しかしここは物部の拠点ですよ。戻るとなってもそう易々とはいかないのでは」

 河勝と調子麻呂が顔を見合わせる。物部の軍勢が奮い立ったことで、再び蘇我軍が押され始めていた。厩戸と馬子を守り抜くことが即ち勝利に繋がるのだが、そんなことは物部も承知だ。嵐のような矢がこちらに集中し始めたので、跳ねのけることで精一杯である。

「どうしますか河勝さん」

「ひとまず皇子さまをお守りしよう。後ろに下がった方が良いかもしれない」

「しかし後ろにいる兵たちも押し合い圧し合いで······」

 二人が眉を寄せる中、厩戸も為す術なく己を守ることしか出来なかった。こんな戦など早く終わらせたいのに、どうしてこうもままならないのか。今朝、確かに四天王に誓ったはずなのだ。一人でも犠牲の少ないうちにこの戦を止めさせてみせるのだと······。

 ──ギリッ。

 その時、厩戸の横で小さく音が鳴った。思わず目を向ければ、赤檮が前を見据えて歯を軋ませていた。

 その目は荒々しい狼の如く、爛々と炎を点している。剥き出された犬歯は怒りをたたえ、轟轟と息巻いているようだった。

「······」

 厩戸はそんな赤檮の顔から目が離せなくなった。彼がそこまで怒るのには如何なる理由があるのだろうか。ハッキリと理解した訳では無いが、二つだけ想像出来たことがある。一つは、きっと中臣勝海なかとみのかつみを殺した彼は同じ顔をしていたのだろうということ。そしてもう一つは、彼の瞳に捕らえられた者はきっと生きてはいられないのだろうということ。

「なるほどね」

 厩戸と同じものを見ていた河勝が納得したようにひとつ頷く。

彦人皇子ひこひとのみこさまがどうして赤檮くんを手放したのか。そして、何故昨日あんな報告をしてきたのか。やっと分かった気がするよ」

 持ち上げられた口の端が、河勝の顔に色を持たせる。その色を愉悦というのだと、厩戸は既に心得ていた。

「皇子さま、赤檮をお使いください」

「······それはそういう意味ですか」

「ええ、もちろん」

 厩戸は静かに息を吐く。きっと、怒りに充ちた彼ならやれるのだろう。そう四天王に囁かれた気がした。

「赤檮」

 淡々と彼の名を呼ぶ。


「守屋を射抜きなさい」


 赤檮が一拍置いて視線を流した。灯した炎はそのままに、真っ直ぐこちらを見つめてくる。

「御意」

 聞いたこともない低い響き。彼が零した言葉はたった一つだけだった。









  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る