日の出


 日が昇った。

 藍が白へと変わりゆく空の下、物部の屋敷を見下ろす丘に蘇我の軍勢が立ち並ぶ。稲城が施され、何百人もの大軍が守りを固める屋敷は、まさに軍事に長けた物部の城とも見て取れた。

 日の出の直後とあってか、物部もまだ動きを見せる様子がない。どちらが先に動くのかと、しばらく膠着状態が続いた。

「······行きましょう、大臣」

 厩戸が小さく呟く。馬子は前線を固める大伴おおとも巨勢こせと視線をかわすと、その言葉に頷いてみせた。

「皇子、どうか後方にいてくださいね」

「ええ」

 近侍の調子麻呂を伴い、厩戸が後方に退く。それを目で確認すると、馬子が真っ直ぐに手を伸ばした。

「いざ!」

 馬子が手を振り下ろす。前線にいる兵たちが雄叫びをあげ、軍は一気に丘を駆け下りた。

 地鳴りのような足音と喧騒。馬の嘶きと金属音。

 耳に届く全てが魂の叫びに聞こえ、うねるような頭痛に苛まれる。しかし、厩戸はそれでも前を見据えた。ここで目を逸らすなど考えたくもない。このまま歩むと決めたのだ。ここで生き、果てた命は馬子とともに背負い込む。そうやって生きてゆくのだと決意した。それは馬子だって分かっているはずだ。今朝、己に向けた彼の笑顔が全てを物語っていた。それゆえに、厩戸も怖くはなかった。


 物部の軍勢は全く引く様子がない。むしろ、今までより力を増したように思える。しかし、今日はあの屋敷まで辿り着かなければならない。何としてでも、今日のうちに守屋の首を仕留めるのだ。その意識だけが、厩戸の中に響いていた。

 黎明の空に血飛沫が飛ぶ。白んだ光に黒が瞬く。圧倒的な力で大軍を押し返す物部は、まさに反り立つ岩壁のようだ。あるいは、大波というものはこういったものなのだろうか。大陸との狭間にあるという大海。一度も見たことがない荒波が目の前に迫るようで、厩戸は心が震えた。

 その中に飛び込んでいく赤檮や河勝の背中が見えて目が離せなくなる。よくあの波に立ち向かえるものだ。相変わらず進撃に難儀しているようだが、それでも奥へ奥へと進んでいくのがわかる。何度も何度も退いたが、それでも蘇我軍は少しずつ屋敷に近づいていたのだ。

 前線が屋敷へと迫る。雨のように降り注ぐ矢が辺りの土を巻き上げた。顔を覆うような土煙の中で、いよいよ物部の目と鼻の先まで来た。

 その時だった。


「待て!」


 突然雷鳴のような声が響き渡った。蘇我・物部両軍が空を見上げる。そこには人などいるはずもない。しかし、声は再び雲の合間に轟いた。

「蘇我大臣に告ぐ! ひとまず弓矢を下げよ! こちらも武器を手放そう!」

 そこで、視線を動かしていた馬子が動きを止めた。

「······守屋だ」

「はい?」

「守屋が楠木の上にいる」

 物部の屋敷の少し手前、確かに大きな楠木があった。その枝の上に人がいるようだが、よほど目が良くなければ判別など出来ない。しかし、馬子は確かに守屋が居るのだと言う。

「一度手を止めよ!」

 馬子がそう応えた。両軍の動きがまばらになったところで、不自然な静寂が辺りを包む。血なまぐさい風はそのままに、弓や剣の音だけがパタリと止んだ。

「大臣、よくぞここまで辿り着いた。その功績、褒めたたえよう」

 突然そんなことを言い出した守屋に、皆が口を開けた。まさか、屋敷まで辿り着けたら和解するという話は本当だったのだろうか。そんな非現実的な考えが脳裏をよぎっては去ってゆく。

「······何が目的だ」

 馬子が小さな身体で声を張る。それが空に届くや否や、守屋はフッと笑った。

「言っただろう。お前たちはここまで辿り着いた。それゆえ和解しよう」

「易々と信じると思うか?」

 馬子の声が震えた。周りの人間は分かっただろうか。厩戸はそれを聞き逃すほど不器用ではない。

 守屋はよく言ったと言いたげに馬子を見下ろすと、両手を高々と掲げてみせる。

「これでどうだ?」

 弓も矢も剣もない。何の真似だと言いたくなるほどに無防備だった。

 馬子は困惑した様子である。確かに、この未来を夢見ていたのだ。守屋と和解出来ることを、物部と共に国を支えていけるほどに強くなることを、何度思い描いただろう。

 しかし、それがいざ目の前までやって来ると恐ろしくなる。ここまで戦ったのに、こんなに呆気ない終わり方で良いものかと······それだけが頭を締め付けた。

「武器は捨てた。大臣も捨てられよ」

「······大臣、きっと罠ですよ」

「そうです。乗らない方が良いかと」

 守屋の言葉を聞き、大伴と葛城が囁いた。

 馬子もそうだと思う。あの守屋がここで引き下がるわけがない。しかし······。

「大臣?」

 カチャリと音がして、馬子が剣を握り直す。どこか虚ろな面持ちで守屋を見つめていた彼は、あろうことか、そのまま剣を鞘におさめた。

「大臣、何をお考えで······」

 何······? 何と問われれば分からないのだ。気がつけば剣をしまい込んでいた。そこに明確な理由など無いのかもしれない。馬子自身にも分からないのだ。しかし何故か手がそう動いた。そう、動いてしまった。

「······」

 守屋は静かに馬子を見つめていた。遠目ゆえにその瞳に宿る光の色など分かったものではない。しかし、何かをたたえていることだけはよく伝わってくる。厩戸には、そこに一瞬の迷いと悲しみが見えたような気がしてならなかった。

 守屋は一度小さく息を吐くと、静かな声で一言呟く。

「······よかろう」

 彼が合図をすれば、武器を身につけていない一人の青年が屋敷から出てくる。和睦交渉でもするつもりだろうか。馬子が安堵したように眉をゆるめる。皆の視線がその青年に集まった、その時だった。


 ギリッと弓を引き絞る音が聞こえた。厩戸が瞬時に顔をあげれば、すぐさま楠木に目が寄せられる。

 太い太い枝の上で、守屋が弓を引いていた。先程まで武器などなかったはずなのに、立派な弓を手にしている。どうやら木の裏にでも隠していたらしい。雄々しい腕によって放たれようとする矢の先に居たのは、他でもない馬子であった。

「大臣!」

 厩戸は思わず声を上げる。気がつけば黒駒の手綱を引いて駆け出していた。驚く調子麻呂と振り返った馬子の視線が厩戸を捉えるが、当の本人は二人を意識する暇すらなかった。

 突然の声に辺りがざわめく。それを嘲笑うかのように、守屋は矢に添えていた指を離した。鷹のように鋭く、熊のように力強い。物部が持てる全ての力を込めた一本の矢が、青空に立ち込める風を貫いた。






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