黎明


 翌朝、まだ日も昇らぬ頃。河勝に肩を叩かれて、止利は目を覚ました。

 外へ出れば、白み始めた空は未だ青く、西には細く三日月が残されている。その朧気な光を真っ直ぐに見つめていたのは、既に戦仕度を整えた厩戸であった。

「······おはようございます」

 背中に声をかければ、青を照り返した角髪みずらを揺らして振り返る。輪郭は透けるかのように朧気だったが、だからこそ、影でしかない背中が黒々と深く染まって見えた。

「おはようございます。よく眠れましたか?」

 いつも通りの柔らかな声音。しかし、そこに今までとは違う響きを感じた。

 何かが欠けている。しかし、同時に何かが生まれている。そんな不思議な感覚だった。

 昨夜、物部守屋との和睦を願った馬子に対し、「甘い」と言い放った厩戸。「物部なぞ、全てお斬りください」と前を見据えた厩戸。ここにいるのはあの厩戸なのだと、本能が心に囁いた。

 これまでは、頭で分かっていながらも深く刻み込まれることはなかった「皇子」という姿。それが確かに厩戸の顔で、目の前に立っている。それが清らかな氷水のように心を潤すとともに、凍てつくような寂しさを呼び起こす。

 しかしそれでも目の前の彼を愛していることは変わらないのだからと、自らの両手に包まれた物を差し出した。

「申し訳ございません。今日も最後の一体を完成させることが出来ませんでした」

 小さな手のひらに乗せられていたのは三体目の四天王像だった。厩戸に彫ってくれと頼まれてから作業を続けていたが、どうしても心が落ち着かず、最後まで仕上げることが出来なかった。いつまで戦が続くか分からないからこそ、なるべく早く手渡したい。皆が剣を握って戦っているのだから、自分も何かをなしとげたい。そう思っていたのに、どうしても手の震えが止まらず小さな刀すら握れなかった。

「いいのですよ。とても美しい。作りかけのものでも良いです。四体目の仏像はありますか?」

「······? はい、ここに」

 まだ顔が彫られていない仏像を手渡すと、厩戸は袖から残り二体の仏像も取り出す。一つは作りかけとはいえ、四つ揃った四天王像に厩戸の柔らかな睫毛が綻んだ。それと同時に、武器の手入れや馬の世話をしていた集団に向かって、高らかに声を張る。

河勝かわかつ! 赤檮いちい! 調子麻呂ちょうしまろ!」

 彼らはすぐに駆け寄ってきた。厩戸は完成していた二つの仏像をそれぞれ河勝と赤檮に渡す。

「情報に長けた河勝には多聞天たもんてんを、弓に長けた赤檮には広目天こうもくてんを」

 仏像を渡された二人は不思議そうに顔を見合せた。厩戸は静かに微笑むと「御守りです」と応えてみせる。そして、調子麻呂には作りかけの四体目を差し出し、「私の力を引き出してくれる貴方にはこの増長天ぞうちょうてんを」と握らせる。

「仏法の守護神たるこの像をあなた方に持たせます」

「で、でも皇子さま。それなら今日のうちにちゃんと増長天の像も完成させますので」

「いいえ、止利さん。この戦は今日で終わります」

 伸ばしかけた手を止める。夜明けの藍に照らされた厩戸からは、不思議と確証のようなものが見えていた。

「これ以上長引かせても意味が無い。それゆえ四天王像を持つあなた方が終わらせるのです。この意味、分かりますね?」

 向けられた微笑みは妖艶で、まるでこの山の神でも宿ってしまったかのようだ。河勝と赤檮は息を呑んで厩戸を見ていたが、一拍おいて涼やかに礼をしてみせる。

「皇子さまの願い、心得ました」

「必ずや、物部守屋の首を持ち帰りましょう」

 厩戸は二人の瞳を見て頷いた。ただ、調子麻呂だけが複雑そうにしている。

「皇子さま。残りの一体はどなたに?」

「これですか? これは蘇我の大臣に」

「······ならば、私の増長天は皇子さまがお持ちください」

 調子麻呂は、作りかけだった増長天を空に掲げるようにして厩戸に返す。白膠木ぬるでの白肌が、柔らかに青を反射していた。

「私は確かに、この四天王のように皇子さまを御守りしたいと思っております。しかし、この戦が全てではありません。皇子さまはきっとそうお考えなのでしょう? 皇子さまが目指したいものは、まだ道の先にあるのだと思います。ならば、この戦の先を共に歩みたいと思える人のために、取っておいてください。止利さんの手でも完成し得なかったことにはきっと意味がある、そう思うのです」

 厩戸は不意をつかれたようだった。あどけなく拍子の抜けた顔をする彼に、ふと昨夜以前の少年らしい彼が脳裏をよぎる。やはりこの厩戸もこれまでと同じ厩戸なのだろうか。そんなことさえ考えた。

「······貴方には何もかもお見通しですね。分かりました。これは私が持っていましょう。そして、無事に戦が終われば止利さんに返します。そこから未来に向けて彫刻を進めてください。今はまだ名前さえ知らないかもしれない、その先にいる誰かに必ず渡すとしましょう」

 厩戸は、調子麻呂に負けたように微笑んだ。一度皆の顔を見つめた後、増長天の像をしまいこむ。

 そして最後に馬子を呼んだ。手渡したのは持国天じこくてんだった。馬子は少し驚いた顔をしたが、厩戸の瞳を見上げると、寂しげに笑って像を受け取る。

「皇子。私は皇子を信じますよ。しかしくれぐれも、御命は大切に」

「分かっております。大臣こそ、どうかご無事で。私は貴方の首を見たくありません」

 互いに視線を交わすと、彼らは先陣を切って馬に乗る。調子麻呂が大切に毛並みを整えた黒駒が、厩戸を乗せて誇らしげにいなないた。

「さあ、行きましょう。必ずや、四天王は我らに味方します」

 厩戸の声に豪族たちが鬨の声をあげる。確か初めて彼を見た時は、黒駒の毛並みと白い衣が相まって神様のようだと思ったのだ。今の厩戸の姿を見て、ふとそんなことを思い出した。


 沈みかける三日月に向かい、馬子が力強く手を伸ばした。

 三度の退却を経た、進軍の合図。

 西暦五八七年、七月七日。この日の夜明けは、まだ青く澄み切っていた。












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