水派宮みなまたのみや押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこさまより蘇我・物部両軍へ。我が子息・茅渟皇子ちぬのみこに関しては、この戦に勝った方へ委ねる······とのことです」

 朗々と紡がれた声の奥で、パチりと焚き火が瞬いた。止利らが蘇我の本陣につくと、驚いた顔で頭を下げている馬子たちの姿が目に入る。

「それは······」

「以上です。私はこれから物部にも同じことを伝えてきます」

 馬子が何か言いかけたが、舎人は一礼すると夜の闇の方へ帰って行った。一拍の間をあけて、豪族たちがザワザワとどよめき始める。

「······皇子?」

 馬子がやっとこちらに気づいたように顔を上げた。厩戸は少々疲れた様子の彼を静かに見つめると、「皆を座らせてください」と定位置につく。

 馬子は不思議そうに厩戸を視線で追っていたが、言われた通りにした。豪族たちが元のように丸くなると、厩戸が口火を切って話し出す。

「明日はどうする予定でしたか?」

「とりあえず、皇子さま方にはここに残っていただこうかと。今日のようなことがあればなりませんし、その分前衛に兵を固めて一気に攻め込むつもりです。やはり土地や戦法であの物部に勝つのは無理だと。朝日が登ってから開戦となります。朝日が登らぬうちになるべく物部の屋敷に近づいておく作戦です」

 戦に慣れている大伴たちが難しい顔をしている。散々皆で話し合ったのだろう。止利は戦のことなどさっぱり知らないが、皆の顔を見ていると苦しい状況だというのはよく分かる。

 知らぬ間に眉を寄せてしまっていた止利に対し、厩戸は物怖じせぬ様子で静かに揺れる炎だけを見つめていた。

「仮に、物部の屋敷まで兵がたどり着いたとしましょう。その後は?」

 静かな声に、馬子が顔を上げる。

「······守屋と話せるのであれば話したい」

 馬子は少しの迷いの後に言った。

「守屋は言っていた。もし、渋川まで辿り着けたら、負けを認めてやると」

 なんと。そんな話が出ていたとは知らなかった。多くの血が流れないのならばそれがいい。正直もう見たくないのだ。黒く流れる血潮も、肌を叩く土埃も、耳に渦巻く怒声も······。もう、見たくも聞きたくもない。闇の中に浮かび上がっていた春日の白く垂れた腕が、どうも頭から離れず胸を締め付けていた。

「······」

 しばらくの間、声が途絶える。パチパチと爆ぜる火の粉だけが鼓膜の奥で瞬いた。

 馬子は守屋を信じているらしい。これまで、二人は仲が悪いだけだと思っていたが、どうも馬子が守屋を過信しているように見えた。

 本当に守屋は負けを認めるつもりなのだろうか。負けを認めてどうなるのだろう。そんな疑問ばかりが心に浮かび上がる。しかし何より、この戦が平和に終わるのならばそれが一番いいと思ってしまう。

 早く帰りたい。梅雨の気配が過ぎ去った、青空の映える飛鳥の地に······。

「大臣」

 誰かが馬子をそう呼んだ。夜風にも靡かぬその声は、やはり真っ直ぐに前を見据える厩戸のものだった。

「大臣は甘いのです」

 ほんの少しだけ声が震えた。きっと並の人間には分からぬだろう。ただ、あまりにも心が純粋な止利には分かってしまったのだ。その震えは、どこか涙に似た懐かしい色を持っていたと。

「物部が何故そのような妥協策などを口にしたかお分かりですか。それは蘇我と歩もうとしていたからではありません。まだ、物部に有利な手札がこちらにあったからなのです。蘇我の血を引かぬ年長の皇子が······難波皇子さまと春日皇子さまが、まだ生きておられたからなのです」

 馬子は声を奪われたまま厩戸を見つめていた。他の豪族たちも、それこそ調子麻呂や河勝でさえも、驚いたように厩戸を見ている。

「きっと物部は、負けを認めるからという理由で二人の皇子を渡せと言ってきたでしょう。引き渡した瞬間、貴方の首は消えていました。きっと、きっとです。でなければ、あの物部がそんなことを言うとは思えません。大臣だって分かっているでしょう、大連が簡単に引き下がるわけないのだと。ただ、大臣ではなく、蘇我馬子が認めたくないのでしょう。物部守屋と二度と分かり合えないことを」

「そんな······こと」

「いいえ、厩戸には分かります。分かっていたのです。貴方のことですもの。何年ともにいたと思っているのですか」

「······」

 馬子は声を失った。初めて見たのだ、このような表情をする厩戸を。しかしながら、最後に紡がれた言葉は確かに、共に過した日々を色濃く浮かび上がらせた。初めて見る厩戸のようで、今まで一緒に歩んできた厩戸でもある。そんな不思議な感覚に喉の奥で息が鳴る。まだ若い火の粉が、夜風に触れてパチリと弾けた。


「物部なぞ、全てお斬りください。厩戸は、それが良いと思います」


 浮かび上がった表情は、ひどく透明で、色がない。先程皇子たちのいる屋敷で見ていたかのような、人間らしからぬ顔。これまでとはどこか違う厩戸が、止利には少々恐ろしかった。

 犠牲を出すのは嫌だと、全ての人を救うことは出来ないのかと、難波に向かって問いかけていた彼。しかし同じ口から紡がれた言葉は、あまりにもその理想からかけ離れていた。

 ── 何かを手に入れれば何かを失う、それは人相手とて同じだろう。

 ── 見つかればいいな。皆が共感出来ずとも、納得出来るような妥協点が。

 ふと、春日と難波の言葉が蘇る。彼らが残したものは、確かに厩戸の中で生きているのかもしれない。

 厩戸は遂に現実を見たのだろうか。そこで、何を手に入れ、何を失ったのだろう。

 止利にはまだ分からない。厩戸に見えた変化が夢なのか現実なのかさえも。しかし、静寂に呑まれそうになっている今、ただせめてもの妥協点が見つかることを祈るばかりであった。


















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