一人、二人


「な、に·····」

 泊瀬部は声を絞り出すようにして背を仰け反らせた。泊瀬部を切ろうとした舎人とねりも放心したように剣を握って固まっている。

 難波は咄嗟に泊瀬部を庇った。彼を抱えるようにした背中の鎧の合間に、深々と裂けた肌が見える。これだけ緊迫した戦だというのに、誰もが動きを止めてしまった。誰も手出しをしようとするものはいなかった。襲撃してきたよろずでさえ失態を犯したかのように顔を歪めると、「弓矢をおろせ、撤退する」と物部軍に言い放つ。しかしそれでもなお、雑兵たちは皇子たちから目が離せぬまま動こうとはしなかった。いや、出来なかった。


 遠くに聞こえる合戦のうねりの中で、難波だけが血の流れる口元をゆるめると、泊瀬部の頬へ手を伸ばす。もはや真っ直ぐに腕を持ち上げることさえ困難だったが、それでも優しく泊瀬部の頬を包むと眦を下げて見せた。

「はつ、せべ······聞け」

 いつもの活力などない掠れた声に、泊瀬部は一つ涙を零したようだった。ひしひしと弱る難波の姿など見ていたくないのか、既に首を横に振っては「いやだ、いやだ」と繰り返している。

 しかし難波も折れなかった。気の弱い泊瀬部を知っているからこそ、それがただの混乱から来る拒否なのだと分かっていた。それゆえに、持てる力を振り絞ってにかりと笑って見せる。

「はつせべ、お前が······大王おおきみになれ」

「······へ?」

 あまりにも小さく囁かれた声。難波が何を言ったのかなど周りの人間には分からなかった。ただ、目の前で呆然とする泊瀬部と、耳を澄ませていた厩戸にのみ小さな想いが流れ込んでくる。

「嫌だ、大王なんて······」

「やれ。できるか、できないかじゃない······お前が······お前が、ここにいる一番の年長だぞ」

 死の瀬戸際にいながらも······いや、死の瀬戸際にいるからこそ難波は気づいていた。視界の端で首元の傷を押さえていた春日かすがの身体が、ぐらりと馬の背に枝垂れかかったことに。腕に抱かれていた竹田が目を丸めると同時に、春日がどさりと馬から落ちる。もう、無理だと思った。自分や春日に残された時間は多くない。それに、元々地方豪族の血だ。大王になるならば、自分達ではないのかもしれぬということは遠い昔から分かっていた。

「はつせべ、生きろ。お前ならできる。信じてる」

 難波はそれだけ語ると顔を綻ばせる。泣き出した泊瀬部の瞳を真っ直ぐに見つめ、消え入りそうな息の中で、優しく、それでいて冷酷に最期の言葉を紡いだ。

「年若い厩戸や竹田を、頼んだぞ」

 その瞬間、糸が切れた人形のように難波の身体が崩れ落ちた。最後の最後に泊瀬部の腕を掴んだのは、死の間際にみせたほんの一粒の、生きようとする本能だろうか。調子麻呂の後ろで呆然としていた止利には見えてしまったのだ。泊瀬部に向けられていたいつも通りの明るい笑顔が、泊瀬部から見えなくなった途端に苦しく歪められたことに。

「嫌だ······」

 泊瀬部は、ずしりと腕にかかった難波の身体の重さに息を詰まらせる。

「やだ、死なないで、いやだ、いやだいやだいやだ」

 顔を引き攣らせて泣き崩れた泊瀬部は、反応のない難波の身体を振り払うようにして立ち上がった。冷たく重い金属音がして、もう二度と動くことの無い身体が地面に打ち付けられる。その音に弾かれたように、泊瀬部を狙っていた舎人はがむしゃらに剣を振り回した。何がなんでも泊瀬部だけは······その気持ちだけが先走っては、刃の先が空を切った。

 しかし、刃が泊瀬部に届く前に舎人の目が見開かれる。崩れ落ちた彼の身体の奥で、咄嗟に動いた河勝が頬を返り血に染めていた。青空に舞った飛沫は赤黒く泊瀬部の顔に降り注ぐ。泊瀬部は放心したように生温い雫を受けていたが、青くなった唇を震わせるようにして息を吸うと、一歩、二歩と後ずさった。

「······ゃ、もういや」

 小さくそう呟かれる。次の瞬間、泊瀬部は叫ぶようにしながら死に物狂いで駆け出した。

「いや、いやだ、いやだ嫌だ!」

「泊瀬部皇子さま!」と厩戸が名を呼ぶ。しかしそれも聞こえていないのか、泊瀬部は足をもつれさせながらがむしゃらに戦地を駆けた。宛先などあるわけもない。ただ逃げたかったのだ。呆気なく永遠の日々が終わる、この惨たらしい現実から······。


 南方から土煙が近づく。前線を目指していた蘇我陣営の大伴おおとも軍が、応援のために戻ってきたのだ。

「······、さっさと引き上げろ! これ以上は何もするな!」

 万が叫び、無理やりに物部軍を撤退させた。両者が入り乱れる寸前のところで行き違う。河勝は調子麻呂と傾子かたぶこを呼ぶと、顎で北を示した。

「泊瀬部さまは僕が連れ戻すよ。竹田さまを厩戸さまの馬に乗せて。空いた馬で難波さまと春日さまを運んどいて。さっきも言ったけど、止利くんが春日仲若子かすがのなかつわくごさまの居場所を知ってるから」

 流れるように指示を出して、河勝は馬を走らせた。調子麻呂は遠のく背中をしばらく見つめると、自分の後ろに乗せていた止利の方を振り返る。

「······耐えてください、あと少しだけ」

 何かを殺すように紡がれた言葉に、止利も頷く他なかった。河勝の言う通りに人を移動させると、調子麻呂は追いついた大伴に後ろを守らせ、皇子たちを先導する。


 誰も何も語らない。馬の蹄の音だけが、木々の合間にこだまする。

 雲がかかり始めた空の下で、蘇我軍は三度目の撤退を余儀なくされた。










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