代わり
「
手綱を握る手や身体支える腰に力が入らなくなったのだろうか。ただ頭上に鳴り響く弓矢の音から自分を守るように、一人縮こまって震えていた。
泊瀬部の前方にいた難波と後方にいた春日が馬を止める。やはり兄弟ほぼ同時のことであった。
「とりあえず泊瀬部さまを運ぶよ。止利くんは調子麻呂くんの馬に移って」
蹄の音の中で、河勝が呟いた。泊瀬部から目を逸らせずにいた止利は慌てて調子麻呂の位置を確認する。と、その時だった。
「春日さま!」
竹田の悲痛な叫びが耳を劈く。声を辿った視線の先で、春日が首元を押えていた。
垂れていた。紅い血が、生命の証が、白い首筋に突き刺さった矢の先から生き物のようにうねり流れ出ている。
飛び交う矢の一つが当たったらしい。俯いていてよく見えないが、春日は珍しく凛とした表情を歪ませているようだった。
「待て! 難波と春日は射るな!」
けたたましい声が鳴り響く。皇子たちを挟み撃ちにしてきた
一体何が起きたというのか。物部軍は一度ざわりと揺らめいて動きを止める。万の意図を探る間もなく、鳴り響く矢の風切り音がピタリとやんだ。
「あ······」
春日の腕に抱えられていた竹田が目を見開いて固まっている。竹田に覆い被さるようにしているところを見ると、春日は飛んでくる矢に気がついて庇おうとしたのかもしれない。唯一春日の表情を目の当たりにしている竹田は、目の前の光景を信じたくないといいたげに、虚ろな目で現実を拒絶していた。ただ、瞳からぽろりとひと粒、雫が落ちて頬を流れている。
竹田の声が聞こえていたのか、馬から落ちていた泊瀬部はとうとう耳を塞いでしまったようだ。冷静に行動していた河勝でさえ、戸惑ったように馬の足を止める。
まさに一瞬時が止まったかのようだった。しかし再び矢を番え始めた雑兵の動きに引き戻され、いち早く声を上げたのは難波だった。
「やめろ! 我々を皇子と知っての行動か!」
張り上げた声は炎のように巻き上がる。普段決して怒鳴りなどあげなかった難波の声に、止利でさえ震えてしまった。雄々しく視線を上げた彼の顔は初めて見る怒りに染まっている。さながら家族を守る兄のようだった。大切なものを傷つけられた憤りは、これほどまでに衝撃を与えるものなのか。
雷が落ちたような声の響きに、再び物部軍の動きが止まった。木々の隙間にみえる射手たちの、怯んだ表情が見て取れる。
「ここに御座すは日を継ぎゆく皇子たちですぞ。狙うならこの河勝一人を狙いなさい」
すかさず前へ出たのは河勝だった。剣を鞘から抜くや否や、山側に控える物部軍に差し向ける。
「調子麻呂くんは止利くんを乗せて先導して。止利くんが示す先に春日仲若子さまがいる。東から大伴軍が応援に来ているようだから大丈夫。とにかく落ちた泊瀬部皇子さまは僕が連れていくよ」
河勝が素早く指示を送った。調子麻呂はうなずくと、河勝の馬にいた止利を譲り受けて皇子たちを先導しようとする。
しかし、そこで歯を鳴らした兵士がいた。生い茂る木々の暗がりに身を潜め、「泊瀬部か」と呟く。しかし、誰の耳にも届くはずがなかった。ただ一人、聴覚に長けた厩戸を除いては。
「河勝! 泊瀬部皇子さまを!」
厩戸が瞬時に振り返る。ふわりと靡いた黒髪の奥で見開かれた眼が見える。しかし、それも遅かった。
「なぜ
剣を抜いた兵士は、迷うことなく泊瀬部の方へ向かっていった。口から出された穴穂部という名は、かつて
物部に近しかった穴穂部。しかし、彼亡き後泊瀬部は蘇我へと流れて行った。長年穴穂部に仕えた舎人らにとって、それが許せなかったのかもしれない。かつては弟君と認識されていようが、今となっては亡き主君を見捨てた非情な男なのだ。
「······や、いやだ」
泊瀬部は、懐かしい兄の舎人の声に耳を塞ぐことしか出来なかった。自分で選択した道に怯えながら、ただ「ごめんなさいごめんなさい」と繰り返しては背を丸めている。
今度は万も止めることなどなかった。たった一人飛び出してきた舎人は、迷うことなく泊瀬部に向けて剣を振り上げる。
「泊瀬部!!」
剣が紅い飛沫を巻き上げた。木の葉を濡らした生あたたかい雫がぽたりぽたりと草花の上に斑模様を描いてゆく。泊瀬部はただ目を丸めていた。息を吸うことも出来ずに表情を固めている。
しばらくしてどさりと地面に崩れたのは、泊瀬部ではない······背中に真一文字の紅を纏った、紛れもない難波の身体だった。
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