現実
「考えてみろ。病を治す薬がたった一つだけあるとして、家族に使うのと赤の他人に使うのとでは大抵家族を選ぶだろ」
春日は、朝方の花のように冷ややかな視線をついっと厩戸へ向ける。
「自分に利益がなきゃ人は動かないぞ。それを上手く使ってより多くの人が納得出来る国をつくるのが大王や臣下の仕事だ。そんなの犠牲なしに出来るわけが無い。人の望みはそれぞれなんだから」
訥々と語る春日には、何か信念のようなものが見えた。今までは透明に澄むだけで何も語らなかった瞳が、月のように荒涼とした光を孕んでいる。
その強い想いは不思議と止利の心に流れ込んできた。ただ諦めや怠惰から発せられた言葉ではない。現実を突きつけるような夢のない言葉でありながらも、言うべくして発せられた台詞なのだということが分かった。
理由を模索しようにも、止利は春日のことを何も知らない。どのような生まれで、どのような過去を持っていて、どのような未来を思い描いているのか。何一つ情報はないが、それでも彼は一筋縄ではいかない人なのだと、もっと素顔を知りたくなった。
凛と咲く花のような春日を見ていると、「まあ、厩戸の気持ちも春日の気持ちも分かる。どちらも二人らしいな」と難波が陽だまりのような笑顔を浮かべた。
「逆を言えば、皆に信頼して貰えるような、皆の希望となれるような、それだけの大王が必要ってことだ。そして、そんな大王は俺らの中から生まれなきゃいけない。全ての人を救うなんてかなりの難題だが、薬が沢山手に入るなら話は別だ。沢山あれば身内だけでなく見ず知らずの人も救える。それは国の豊かさだと思う。皆が満足に腹を満たして、安心して眠れるような国になれば、少なくとも戦は減るだろう。俺は勝手にそう思ってる」
難波はさながら太陽のような人だった。何度も感じたが、人を照らすのが上手いのだ。厩戸が描いているような、この世のすべてを包もうとする理想の光でもって、地上にある現実を上手く明るい方向へ導こうとする。
その姿はやはり春日とは対照的に見えるものの、まるで月と太陽のように、何か相互に絡み合う共通点があるのではないかと、そんなことを考えた。
「そう、ですか······やはり皆を救うのは難しいのですね」
「まあ無理だ。物部が勝てば蘇我が朽ちる、蘇我が勝てば物部が朽ちる。そういうものだ。何かを手に入れれば何かを失う、それは人相手とて同じだろう」
言い切った春日を見て難波が寂しそうな顔をした。しかしすぐにぽんぽんと春日の肩を叩くと、そのまま横を通り過ぎて厩戸の前へしゃがむ。
「見つかればいいな。皆が共感出来ずとも、納得出来るような妥協点が」
難波はわしわしと厩戸の頭を撫でる。難波へは対等な顔を見せていた厩戸だが、今日はひどく甘えているようだった。難波は兄のような顔で眦を下げると、「よし、明日も頑張ろう」と立ち上がって手を鳴らす。
「止利も無事でな。一度
「俺は何も知らんが」
厩戸の弟である来目にあげた彫刻というと、
難波の笑顔に背中を押され、二人の皇子を見送った。残された厩戸は、ひとつ息をついて止利の名を呼ぶ。
「ごめんなさい、どうも心が落ち着かないんです。今日はここで四天王を彫っていてくれませんか?」
思いがけない申し出に眉が上がる。しかし縋るような微笑みに手繰り寄せられ、「はい、僕でよければ」と笑顔をみせた。
それからは、何も言わずに白膠木の枝を彫り進めた。未だに布の線や細やかな指先を彫るのは苦手なのだが、元々彫刻はしていたのでそれなりに形にはなる。
だからだろうか。手先を動かしながらも、どうもぐるぐると思考が巡る。
──何かを手に入れれば何かを失う、それは人相手とて同じだろう。
先程見た春日の瞳が頭にちらついた。踏み込んだら失礼だろうとしばらく押さえ込んでいたが、やはり耐えかねて厩戸に声をかけた。
「失礼ながら、春日皇子さまはどのような御方なのですか?」
厩戸は静かに止利の手元を見ていたが、「春日皇子さま?」と視線をあげる。
「はい。どうも先程の言葉は御自身の経験から綴られているようにも見えまして······」
「なるほど。実は私も以前から気になっていたのです。昔から大勢の輪の中に入ることはお嫌いな様子でしたが、それでも月に一度は飛鳥へ来ていたのですよ。しかし、ある時からめっきり姿を見せなくなりまして······」
「ある時?」
「ちょうど九年ほど前でしょうかね。その頃から妙に達観したご様子で、私も難波皇子さまに訳を聞いたことがあります。しかし、難波皇子さまは答えられないというのです。広められない事情があるんだ、だから察しておくれ、とだけ申して頭を撫でられました。私が幼かったのもあるのでしょうが、大臣ですら事情を知らないというのでよほどのことなのだろうと」
思わず
何か、理想や夢が崩される瞬間でもあったのだろうか。今更ながらに、あの春日の瞳は厩戸の無知を嘲笑うようなものではなかったのだと確信する。どちらかというと、無垢すぎる子供を心配するかのような、そんな色に溢れていたようで······。
「まあ気にせずとも大丈夫ですよ、きっと」
厩戸が少々疲れたように微笑みをこぼす。
「それにしても止利さんはやはり器用ですね。貴方の手元を見ていると自然と心が落ち着きます」
突然の褒め言葉に一瞬時が止まって見えた後、ぶわりと頬が熱くなる。謙遜して縮こまれば、厩戸はくすくすと面白そうに笑った。
──悲惨な戦の場だからこそ、物資調達を介してでも皇子の様子を見ていて欲しい。
ふと戦が始まる前の、馬子の言葉を思い出す。自分が思っていたよりもまだ柔く脆い厩戸の様子に、やっと馬子の心底が理解出来た気がした。
自分がそばに居るだけでも厩戸は嬉しいのかもしれない。そんな自惚れた思考が頭をよぎったが、すぐに自分でなければならないのだろうか、などと不安が押し寄せる。もし、ここにいるのが
「あっ」
余計なことを考えていたら仏像の首元を深く削りすぎた。歪で修復不可能な様子をみながら、一つ大きな溜息を漏らす。
今度こそ仏像に集中しよう。
そう決意を固めると、止利は再び
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