戦支度
「
戦などたかが権力者のもの······そんな考えなど通じるわけがない。今回の戦は一人二人を滅ぼすわけではない。蘇我と物部が、この飛鳥をまとめる二大豪族が、全力でぶつかり合うというのだ。それだけの事を前にして、もはや豪族や品部に差などなかった。皆が戦のために尽力し、戦支度に巻き込まれる。これほど大きな争いなど経験したことの無い止利にとって、今のピリついた雰囲気はどうも泣きたくなるほどの焦燥感に包まれていた。
「止利、俺は
従兄弟の
「えっ、どなたが······」
「いいから行け! 待たせるな!」
チクチクとせっつかれて逃げるように仕事場を離れると、育ち始めた
止利が些か緊張しながら話しかけると、駒は「忙しい中申し訳ありませぬ」と呆れるほどに美しい姿勢で頭を下げる。辺りに人がいないのを確認すると、「大臣が貴方様をお呼びです」と声を低くした。
止利は目が飛び出るほど驚いた。厩戸を介するわけでもなく、馬子が直接自分を呼んだのか?
全く身に覚えがないので頭の中がぐらぐらと揺れる。何を言われるかと身を縮めながら指定の場所へ向かうと小さな御堂があった。駒に促されて中へ入れば、仏像を前にしてこじんまりと背を丸めている馬子がいる。彼は呼びかけられて初めてこちらに気がつくと、「忙しい中すまないね」と詫びるように眉を下げた。
「どうだい? 品部の方は······かなり忙しくさせてしまっているだろう」
「い、いえいえ。皆、大臣のために精一杯仕事に励んでおります」
馬子はどこか寂しそうな顔をした。「ありがとう」と一言述べると、姿勢を正して止利に向き直る。
「実は、
馬子はカラリと木簡を広げる。止利は文字が読めないので正確なことは分からないが、どうやら戦のための武器について、事細かに勘定が記されてあるようだった。
「物部は軍事を司っているだけあって戦が上手い。私も精一杯努めるが、長期戦になる可能性がある。その場合、新たな武器をここから主戦場まで運ぶこともあろう。私は、汝にその管理を頼みたいと思った」
武器の管理? この僕が?
思いがけない申し出にぽっかりと口が開く。確かに鞍や手綱、
「どうだろう? 信頼出来る鍛冶部や弓削部の中からもいくらか引き抜くつもりだ。この飛鳥から物部の本拠地がある
馬子はそう付け足すと、こちらを窺うかのように視線をあげた。そして「どうだろう?」と心配そうに眉尻を下げる。
──この僕が戦場に。
止利はひっくり返った天地を見るような心持ちで木簡を眺める。文字も読めなければ武術の腕もない。そんな自分が戦場にいて足でまといにならないだろうか。いや、前線に行くはずもないのだが、それでも陣の近くで豪族たちへ物資を届ける。それがあまりにも重い荷に思えて、心の土台がぐらぐらと揺さぶられるかのような心地がした。
「あの、なぜ、そのような重役を私に······」
そう聞かずにはいられなかった。無作法だとは分かっている。しかし、直接聞いてみたかった。何故、馬子は自分を見出してくれたのか。何故、わざわざ会いに来てくれたのか。
彼は少しの間、美しく磨かれた床を眺めたが、しばらくして「厩戸と関わっている様子を見てね」と口元を緩める。
「皇子はどうも、汝を気に入っているらしい」
思いがけない言葉だった。止利が目を丸めると、馬子は父母のような瞳でもって相好を崩す。
「皇子は昔から人を見極め、対応を選ぶところがある。私の前ではまるでわがままな子供のように、調子麻呂の前では年相応の自然な様子で、難波皇子さまなどに至っては対等な大人のような口ぶりをする」
思い返してみればそうかもしれない。初めて難波に会った時、彼は厩戸を「大人びている」と言っていた。厩戸も、難波のことは信頼のおける同僚のような眼差しで見ている。一方調子麻呂となると、どこか兄と弟のように、母と子供のように、取り繕わない表情で言葉を交わしている。
そう考えると、やはり馬子の言葉は厩戸の特徴をよく捉えているし、だからこそ馬子は厩戸に甘えてもらえる存在なのだろうと思う。しかしながら、そんな馬子から言われたからこそ、厩戸が自分を気に入っているという言葉の真意が気になって仕方なかった。
「厩戸が汝と話す時、時たま初めて見る表情をするんだ。それの意味をずっと考えあぐねていたが、最近やっと分かった。皇子は汝を尊敬している。それが何故かなど私ごときには分からないが、どうも惹かれるところがあるらしい。だからこそ、汝にはなるべく厩戸のそばにいて貰いたいんだ。此度のこともそれが理由でね。悲惨な戦の場だからこそ、物資調達を介してでも皇子の様子を見ていて欲しい。······余計なお世話だろうか?」
止利はぼんやりとした頭のまま唇を噛んだ。この感情は前にも経験した。河勝に彫刻の才能を褒められた時の感覚だ。己の取り柄など気にしたこともなかった止利にとって、自分よりも深い経験と心を持つ人々に認められることなど夢のようだった。
しかしながら不快なものではない。確かに戸惑いと照れが押し寄せてくるが、それ以上に飛鳥で生きる意欲が湧くのだ。自分もここで生きる民の一人なのだと、そんな感覚がひしひしと心を包み込む。
それゆえ止利は馬子の申し出を受け入れた。自分に大役が務まるか分からないが、精一杯にやってみようと思う。またとない機会に、何か恩返しをしたいと思った。一介の品部でしかない自分を認めてくれた、厩戸や馬子たちに······。
止利は一度馬子に頷いたが、ふと木簡が目に入って動きを止める。もしや文字でのやり取りもあるのだろうか。もしそうならば、声に直してくれる人がいないと仕事にならない。
「あの、その仕事に文字は使われますか? 僕は文字が読めなくて······」
「ああそうか。失念していた」
馬子は申し訳なさそうに木簡をまとめると、「ならば文字の読める者をそばに付けるかい?」と駒の方を見上げる。
「だれか適任がいれば任せたいんだが······」
駒が顎に手を当てる。止利は面倒をかけて恥ずかしいやら畏れ多いやらで首を縮めていたが、ふと一人の顔が思い浮かんで「あっ」と声を上げた。
「あの、もし宜しければ僕の従兄弟に相談しても良いですか? 彼なら文字が読めるはずです」
「従兄弟?」
「はい、福利というのですが······鞍を渡している相手から言葉や字などを学んでいるらしくて」
同じ鞍作部である福利は、何故か異国の言葉を勉強している。止利が作業場で彫刻をしている時なども、決まって地面に文字を書いている。得意先の豪族に教えて貰っているらしいが、詳しい相手は分からない。それでも、文字を学び、舌に音を乗せている時の福利は決まって楽しそうに見えた。
話を聞いた馬子が駒を見上げる。何やら目で会話をすると、「福利と言ったね」と身を乗り出した。
「その者は百済言葉が使えるのか? 他に学んでいるものは······」
「え、ええっと、確か新羅の言葉も独学で······」
馬子の眉が真剣な様子で顰められる。凛と響くような静寂が辺りを包み込み、晩夏の喧騒が遠のいた気がした。
「······分かった。ならばその者に頼もう」
馬子は何やら考えを巡らせているようだった。半ば上の空のような返答をして、止利のことを解放する。
──何か気になることでもあったのだろうか。
最後に見た馬子の瞳を思い出し、甘樫丘の頂きを見上げる。耳に蘇ったひぐらしの声が、まだ白む夕空に冴え渡っていた。
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