小野


仲若子なかつわくごはいるか」

 飛鳥の北。現在の琵琶湖の畔に築かれた屋敷へ凛とした声が響いた。声に応えて出てきた初老の男は穏やかな瞳を膨らませる。そして「これはこれは皇子みこさま」と客人に向かい頭を低くした。

「わざわざこちらへお越しとは、一体どういたしましたか?」

 仲若子の元を訪ねてきたのは、難波の同母弟にあたる春日かすがだった。客間へ案内されると、「人払いさせろ」と難波とは似ても似つかぬ切れ長の瞳で辺りを見渡す。

 仲若子は春日小野氏の長であり、春日にとっては母方の祖父にあたる。つまり彼の娘こそが難波や春日の母親であった。宮が仲若子の屋敷にほど近いこともあってか、仲若子は春日の後ろ盾として近しい関係を築いている。仲若子が春日の元を訪ねることはあるものの、その逆はよっぽどの事がないかぎり例がなかった。

「お前、まさか物部に寝返ったか?」

 周りから人が消えるやいなや、春日が確かめるように言った。しかし仲若子からすれば何の話か分からない。

 仲若子は難波や春日の後ろ楯となり、蘇我方に味方していた豪族の一人だ。今のところ、蘇我から物部に鞍替えしようなどとは微塵も考えていない。それなのに、何故春日はそのような物言いをするのだろう。

 その疑問を汲み取ったかのように、春日は意外な男の名を挙げた。

捕鳥部万ととりべのよろずが宮に来た」

 仲若子が驚く中、春日は差し出された椅子に腰を下ろす。

「物部へ味方せぬかと。何故俺に話が来るのかわからん。それゆえお前が寝返ったのではないかと思った」

「そ、れは······とんでもございません。我々は未だ蘇我へ味方につくつもりでおりましたが······」

「そうか。ならいいんだ。俺も物部は好かん」

 仲若子は広がり始めた不安と疑問を押し殺すかのように深く息をついた。捕鳥部万というと守屋の右腕も同然。そんな男がわざわざ春日まで来るなど思ってもみなかった。まさか兄の難波の元へも使者が送られたのだろうか。ここで反抗したら物部に目をつけられるだろうか。そんな恐ろしさが首を絞めるようにまとわりついたが、だからといって物部にホイホイ流される仲若子でもなかった。

 しかし蘇我からは戦になるとの連絡が来ている。その時は仲若子も兵を出すつもりでいた。穏やかな湖岸に響き渡る鍛錬の声が、緑豊かな小野の地を震わせるようでどうも最近は落ち着かなかった。

「皇子さまは······戦へ行きますか? 皇子さまの分の鎧は用意しようかと思っております」

「······行かん訳には行かないだろう。兄上も行くと言うし、何より歳若い厩戸や竹田が行くと言っている。ここで俺が黙りこくればお前らにとっても恥だぞ?」

 春日はいつも通り面倒くさそうに呟いた。本当は蘇我にも物部にも関わりたくなどないのだろう。よっぽどのことがない限り、春日は飛鳥へ行こうとしない。元々群れるのが嫌いな性格だ。一人で悠々と、誰の干渉も受けずに過ごすことが性に合っているのだと思う。言葉数が少ないのも愛想を振りまかないのもそれが所以なのだろうが、だからこそ、他人からは冷たい皇子だ、気難しい皇子だとよく言われる。

 しかしながら、仲若子や難波は分かっていた。春日は情がないわけではない。他人を思いやる心は人相応にあるのだ。ただ、それをわざわざ表に出すのが面倒なだけ、柔らかい言葉で伝えることが苦手なだけ。だからこそ、春日の氏族を思いやる彼の発言に、仲若子はまろい目を細めて頭を垂れた。

「一先ずお前は蘇我につくんだな?」

「ええ」

「そう。なら物部の誘いは断る」

 仲若子の意思を確認すると、春日は腰を上げて部屋を後にする。しかし廊下へ出たところで立ち止まると、壁際の一点を見つめた。

 そこには一人の少年がいた。部屋の外にしゃんと佇み、春日によく似た利発そうな瞳でこちらを見上げている。春日の様子に気づいた仲若子は、顔をのぞかせるやいなや「あっ、こら妹子いもこ」と呆れたように少年に駆け寄った。

「盗み聞きはよくないな」

「通りがかっただけです」

 妹子と呼ばれた少年は表情も変えずにさらりと言ってのけた。そして春日を見上げると、興味があるのかないのか分からぬ瞳でまじまじと顔を覗き込む。仲若子は困ったように妹子の頭を撫でてやると、「もうすぐ夕餉ゆうげの時間だろう。部屋に戻ってなさい」と背中を押して立ち去らせた。

 妹子は一度だけ春日を一瞥すると、返事もせずにスタスタと廊下の奥へ歩いてゆく。ため息をつく仲若子の後ろで睫毛をふせた春日は、「もう七つにはなるか?」と月明かりのような声を零した。

「はい、今年八つで······」

「そうか」

 春日はしばらく妹子の背中を追うように見つめていたが、仲若子を促すと屋敷の門へ向かう。その道中、「あいつは良い父親を持ったな」と仲若子を振り返って笑った。

 妹子は仲若子の末息子だった。末といっても、これまでは娘しかいなかったので長男となる。長女の老女子おみなごが春日の母であるため、春日にとっては年下の叔父とも言えた。

「幼子だっているんだ。戦に赴いても死ぬなよ。この地にはお前が必要だ」

 仲若子に向けられた言葉には、どこか寂寞とした信頼が宿っていた。春日の声を受け止めると、仲若子は「皇子さまこそ」と目を伏せる。春日は「ああ」と頷いたものの、迷うように夏の空を仰ぎみた。悠々と駆け抜ける風に、角髪に差された花飾りがふわりと揺れる。

「しかし万が一のことがあれば······」

 そこで一度言葉を区切ると、春日は視線を落とした。ただ新緑を取り巻く湖の香りに胸を落ち着かせると、「いや、こんな話は縁起でもないな」と苦笑する。

「頼んだぞ、仲若子」

 何とは言わずにそう言った。しかし、仲若子にはしかと分かっていた。彼が一体何を自分に託したのか······。

 花咲く小野の地に緑の残り香が満ちる。春日が物部の誘いを断ち切ったのは、そのすぐ後の話だった。








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