難波
飛鳥から難波へと続く山林。青々とした風が木漏れ日を揺らす昼下がり。
ところが、その中に土埃の匂いがした。前方に二、三の馬の列があり、こちらへ登ってくるようである。前にいた舎人が難波の馬を止め、道を譲ってもらうよう声をかけにゆく。しかし、そこに見えた顔を受け、舎人は目を丸くして帰ってきた。
「皇子さま」
「誰だった?」
「それが······物部の······」
報告を受けて首を伸ばす。前にいるのは何度か見かけたことのある青年だった。
しかし、贄子はわざわざ馬から降りて難波に向かい頭を下げた。面食らうのも束の間、彼は「
「近場の館にてお話をしとうございます。どうか御一緒してはいただけませぬか?」
難波は何のことだと言いたげに舎人たちと顔を見合せた。しかし贄子の賢さを知るがゆえ、そして何事もまずは受け入れようとする性格ゆえに、とりあえず話だけは聞いてみようと思った。
どうやら剣も持っていないらしい贄子に連れられ、別荘だという小さな屋敷に通される。そこで聞かされた提案は、難波が薄々勘づいていた話そのものだった。
「物部が俺の後ろ盾に?」
贄子が恭しく頷く。どうも物部は味方が欲しいようだった。しかし難波としても納得せざるを得ない。今有力な皇子は年長順に彦人、難波、春日、泊瀬部、厩戸、竹田。しかし彦人と泊瀬部は物部の頼みを断ったようであるし、厩戸と竹田はまだ若い上に蘇我の色が強すぎる。そうなると、物部が頼りにできるのは己と弟の春日である。最後の望みなのだろうと思うが、難波の独断で決められるような内容でもない。それに、難波としては蘇我に不満などないのだ。下手に動いて殺されたら溜まったものでは無いし、何より普段可愛がっている厩戸や竹田や来目と対立するのはあまりにも心が痛んだ。
難波は一度目を閉じてじっくり考え込むと、「悪い」と息を吐き出す。
「物部に近い地で過ごしている手前心苦しいが、俺はこのまま蘇我方にいるつもりだ。物部につく気はない。······その場合どうしろと言われてるんだ? 斬れと命じられているなら俺一人だけ斬れ。それで構わん」
贄子は揺らぎのない瞳で難波の答えを聞いていた。守屋にも似た切れ長の瞳はどこか赤々と西日をたたえる。息を呑むような静寂の中で贄子は難波を見つめ続けた。しかし、しばらくして肩をゆるめると、「そうでございますか」と目を伏せる。
「殺しなど致しませぬ。引き止めてしまい申し訳ありませんでした。どうかお気をつけてお帰りください」
聞き分けの良い贄子に驚いたものの、刺客などが現れないところを見て、握りこんでいた足の指を開いた。難波が外へ出ると、律儀にも贄子は頭を下げて見送ってくれる。
やけにあっさりとしていた。まるでこれが真の目的ではないようなむず痒さ。背中をもだもだとさせながら帰路を歩んでいると、ふと視線を感じて山の斜面を見上げた。すると、ぽつりと佇む見知った顔を見つけて「待て」と馬を止めさせる。
「何故ここにいるんだ?」
そこにいたのは河勝だった。供も連れずに斜面に立ち、こちらに深く頭を下げる。
「······降りてこい」
難波は何か感じ取って河勝を呼び寄せる。贄子たちの姿が既に見えなくなっていることを確認すると、「お前、どういうつもりだ?」と呆れたように眉を寄せた
「お前がいるってことはお前の仕業だな。なんだ、寝返りでもしたか?」
「いえいえ、私はまだ蘇我方ですが」
「じゃあなんだ、何かの策か」
「まあ······物部には言えませんがそういうところで」
難波ははあ、とため息をつく。相変わらずな河勝を見遣ると、「それで俺を使ったのか。一応皇子なんだがなぁ」と苦笑しながら頭を搔く。
「それは大臣も承諾しているのか?」
「大臣にはまだ話しておりませんが、あちらに不利なことはないかと」
「大丈夫なのか?」
怪訝そうな難波に対し、河勝はチラッと視線を向ける。
「贄子殿の頼みを断ったのならば無用の心配では? 貴方様が恨まれることもないようにしてあります」
相変わらずな河勝を見て「うーん」と唸る。しかしふと眉をあげると、「おい待て」と燃える陽のような声を滲ませた。
「まさか春日にも同じことしてるんじゃないだろうな?」
河勝は笑って答えない。難波は牽制するかのように眉を寄せた。しかし飄々とし続ける彼にまたため息をつくと、「お前はどうも不思議なやつだな」と諦めたように項垂れる。
「まあ春日のことだ。頷くことはないと思うが、だからこそ物部に恨まれちゃあ困る。お前、言い出した手前は春日のことしっかり守れよ?」
難波がヒラリと馬の背に舞い戻ると、河勝は「御意」とだけ答えて頭を下げた。
河勝のことは信頼しているが、時々何をしたいのか読み取れない時がある。どうも彼は多様な顔を見せているようで、どれが偽りのない姿なのか判別がつかなかった。
しかし不思議と嘘はつかない男である。よく婉曲な言い方をするが、蓋を開けてみれば確かに嘘などついていない。そんなところが奇妙ではあるが、だからこそ、「春日を守る」というのならばそうしてくれるのだろうと思う。それ故に、難波は河勝を信じてみることにした。
「まあいい。今回のことは誰にも言わないでおいてやる。とりあえず、春日や厩戸たちを危ない目に遭わせるのはやめてくれよ? 大事なんだ、家族も同然だからな」
河勝とは裏腹に、難波の言葉は呆れるほどに真っ直ぐで、本心に違わない色を持っていた。難波にとって、同母兄弟の春日も、異母兄弟の彦人や竹田も、はたまた兄弟ですらない泊瀬部や厩戸や来目も、皆が等しく大切なのだ。各々立場があるとはいえ、飛鳥へ行って顔を合わせると会話したり遠出したりする機会も多い。人と関わることが好きな難波にとって、一つ一つが楽しい時間であり、皆の笑顔を見るたびに失いたくないと思った。
だからこそ、皆が蘇我方に立ち、馬子や河勝が守ってくれると言うのならばそれが良い。未だ中立を保ち続けている彦人のことは気にかかるが、
「河勝。頼りにしてるぞ、俺は」
やはり心からの言葉だった。河勝は難波の性分を知っているがゆえに、眩しそうに顔を見上げる。
難波には何か太陽のような明るさが見えるのだ。それは大王としての素質とはまた違う。どちらかといえば、強き者にも弱き者にも光を与える、皆の兄のような眩しさ。
それをひしひしと胸に感じながら、河勝は深々と頭を下げる。「ありがとうございます」と口を弛め、せせらぎのような声でもって答えた。
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