第七章「丁未の乱」

物部守屋


「······泊瀬部皇子はつせべのみこが蘇我についた?」

「はい、どうやら我々の頼みを断った様子」

 守屋もりやの低い声を聞き、忠臣たる捕鳥部万ととりべのよろずが頷いた。

 渋川しぶかわ(現大阪府八尾市周辺)にある物部の屋敷には、集められた兵たちの声が威勢よく響いていた。まだ戦をすると決めたわけではないが、一戦交えるところまで来てしまったのだ。それゆえ兵たちの鍛錬は進めていたが、まさかここで火蓋が切って落とされるとは。

 守屋はギリと歯噛みすると、「大臣おおおみはなんと言ってる」と自身の部屋へ向かって歩き出す。

「どうやら蘇我も密かに兵を集めていたようです」

「数は」

「まだ知れませんが······こちらの二倍はあるかと」

 まさかあの馬子が戦へ踏み切るとは。守屋は一度足を止めると、ほんの少しの感心と焦りを持って顎に手を当てた。

 いつの間にか馬子も変わっていた。あの時······中臣勝海なかとみのかつみが殺された時、彼の目を見てそう思ったのだ。大切に思ってきた勝海を失い、怒りに任せて言ってしまった。飛鳥がこうなったのは自分のせいでもあり、馬子のせいでもあると。

 その時、たった一言「構わぬ」と言って見せた馬子の顔がひしひしと胸に浮かぶ。いつの間にあれほど強い瞳を持つようになったのだろう。まだ躊躇いのような幼さはあったが、それでも蘇我の棟梁たる男なのだと思った。

 ふと、遠い昔に交わした約束が蘇る。それを果たすのもそろそろかと思った。しかし、物部としてはここまできて了承することなど出来ないのだ。優しすぎる馬子らしい、あの小さな日の約束など······。

大連おおむらじ?」

 万の言葉に意識が引き戻される。守屋は気まずさを見せぬように口を引き締めると、いつも通りの仏頂面で「いや」と言って見せる。

「あちらが多勢ならば挟み撃ちも有り得るな。ひとまず全てこの渋川までおびき寄せよう。地の利はあった方が良い」

 万は「御意」とだけ言って頭を下げる。万は誠実な男だった。勝海が生きていた頃は二人併せて頼りにしていた。それゆえにもう失いたくはなかった。

 どうも馬子は勘違いをしている。幼い頃から守屋に勝っている点などないと不満そうにしていたが、多くの皇子があちらについたのは、多くの豪族があちらについたのは、馬子の力量そのものなのだ。彼には手回しの上手さや、信頼の勝ち取り方が身についている。だからこそ、それでも守屋の傍に残った万たちは、最後の最後まで信頼し得る盟友だと思っていた。

 最近、守屋は馬子の一番の恐ろしさに気づき始めた。それがいずれ顕になるのではないかと危惧している。しかし周りの人間や馬子自身に教えてやる気などない。自分で己の力量に気づけぬところが、また彼の拙さなのだ。守屋はそう一蹴して、いつもまた口を閉ざす。寡黙で愛想もない朴念仁の自分としては、そうすることが精一杯の愛情表現だった。

「万、屋敷の周りに稲城をつくらせろ。ここを主戦場にする」

 守屋の言葉に頷いた万は、シャンと伸びた背中で去っていった。途中、彼が伴にしている白犬に飛びつかれて爽やかに笑っているのが見えた。普段笑わぬ守屋だが、何でもない日常は好きだ。特に勝海と万が小競り合いなどをしていた時は可笑しくて思わず眉が下がった。

 生きて勝ち残ればまたいつも通りの日々がくる。ただ、そこに馬子の姿がないだけ。そう自分に言い聞かせて戦の準備へと取り掛かった。

 軍事に長けた物部なのだから、そんなものは迷信に過ぎないと分かっていた。勝とうが負けようが、戦は日常をガラリと変える。こちらが勝ったとて、またこうして万たちと笑い合えるとは限らないのだ。それを理解はしているが、今日くらいは希望を抱いて己を奮い立たせても良いだろう。

 散々忠告してきたのだ。これ以上余計なことをすると戦になるぞ、と。口に出した訳では無いが、馬子ならば守屋の瞳ひとつで言いたいことを汲んでくれると思っていた。小さい頃からそうだったのだから、今更信じて疑わなかった。それゆえ守屋は気づかなかったのだ。馬子から見た守屋もまた、昔のようにはいかぬ程に変わってしまっていたことに······。


 静かな朝の光の中で、戦の土の香りが訪れた。ちょうどその日のことだった。秦河勝はたのかわかつが守屋の元を訪ねてきたのは。














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