第六・五章

思い出


「あっははは! ほら、上に引っかかっちゃったぞー」

「うわ、その枝も届かないのか? 相変わらずチビだなお前。誰に似たんだろーな」

「うるさいっ! 一人で取れるからあっち行って!」

 ······散々だと思った。チビだなんて自分が一番よく分かっている。のろまだということも分かっている。それなのに僕のことをいじめて楽しいのか。


 去ってゆくいじめっ子たちを見送ると、精一杯に伸び上がる。大きな楠木くすのきの悠々とした枝に薄衣が引っかかっていた。雨に濡れたらこれで身体を拭きなさい、と母が持たせてくれた大切な布だ。それを奪ったあいつらは、あろうことか木の枝に引っかけて帰っていった。

 一番低い枝ながら、つま先立ちをしても中々届かない。ぐっと広げた指先が触れるまで、あとほんの少しなのだ。あいつらの背丈ならすぐに届くのだろうと考えると、情けなさに涙が出てきた。何故自分はこうも鈍臭いのだろう。せっかく父の付き添いで渋川しぶかわまで遠出してきたの言うのに、旅行気分も一気に消え失せてしまった。

「何やってんだ馬子」

 ふと名前を呼ばれて横を向いた。そこにいたのは何度か見たことのある少年だった。自分より一つ年上だっただろうか。父同士の仲が拗れたせいで最近はめっきり顔を合わせなかったが、数年前までよく遊びあった仲であった。

「また虐められたのか? 相変わらず鈍臭いな」

「うるさい······守屋には関係ないもん」

 年相応の幼さで口を尖らせる。強がりだなんてことは、目の前の守屋とて分かっているのだろう。こちらを見下ろす呆れた目が些か大人びて見えて、馬子はますます頬をふくらませた。知らない間に彼はまた背が伸びたらしい。自分の視線が胸元にぶつかるので、並んだ時の差など容易く想像がつく。どこか恥ずかしかった。ただでさえ年より幼く見えるのに、これでは益々子供に見えてしまう。自分とてもう九つになる。そろそろ大人の仲間入りをしてみたい年頃だった。

「······ん」

 俯いて黙っていたら、守屋が薄衣を取ってくれた。軽々と枝に届いた彼の指には、いくつものタコが出来ている。きっと剣でも握って鍛錬しているのだろう。物部とはそういう家だ。それがまた自分との差を広げるようで、布を貰い受けても上手くお礼が言えなかった。

「今度は誰だ。大伴か? 中臣か?」

「······どっちも」

「なぜ言い返さない」

「······文句は言った」

「じゃあやり返せ」

「······暴力は嫌いだもの」

 守屋は呆れたようだった。未だ拗ねた様子の馬子を見下ろすと、「これだから新参者の蘇我は」とため息をつく。馬子が生まれた蘇我という家は、最近力を持った豪族であった。以前はあまり表舞台へ立たぬ存在であったが、父の稲目いなめが大臣となったこと、力のあった大伴氏が弱ったこと、そして仏教を取り入れ始めたことを皮切りに、物部や中臣と対抗する勢力へと急成長を遂げていた。それゆえに元々力を持っていた豪族たちからの風当たりは強い。馬子とて、仏教や蘇我に対抗する中臣などの子らからいつもいつもからかわれていた。

 守屋とてその一人だろうが、何故か自分へ手助けもしてくる。他の氏族の子らとは違い、守屋は口先ばかりのからかいだけで、手を上げて虐めてくることはなかった。

「いいか、いざとなったら相手を傷つけてでも守らねばならないものがある。それが国を支える豪族だ」

「でも人を斬るのはダメだと思う」

「ダメも何もないんだ。そうじゃなきゃ自分が喰われるぞ」

 守屋の言いたいことは痛いほどに分かった。自分だって拳をもってやり返さない限り、きっとまた皆にからかわれて虐められる。けれども馬子はそれが怖かった。人を傷つける感触がもろに腕に伝わるなど、恐ろしくて吐き気がする。それに、そこまでの勇気などないのだ。しかし小心者だと言われるのがまた一層怖くて、「父上が」と言い訳を重ねる。

「父上がよく言うの。守屋と仲良くしておきなさいって。そうすれば人を斬らなくても済むかもって。でも守屋の父上は僕のこと嫌いみたいだからさ、どうすればいいと思う?」

「······」

 守屋は黙ってこちらを見下ろした。元々寡黙なやつだった。人と話しているところをあまり見かけないし、長ったらしく会話を続けているところも見たことがない。しかし少なからず自分と喋ってくれるので、ほんの少し期待していた。守屋はそこまで自分のことを嫌ってはいないのではないか、と。

「それを考えるのがお前の役目だ」

 守屋はそうとだけ言うと背を向けて帰ってゆく。素っ気ない態度に「守屋!」と名前を呼んでみたが、うるさいと言わんばかりにヒラリと片手を振られた。

 やはり自分のことを良く思っていないのだろうか。そう思うとツンと鼻先が痛む。例え物部と蘇我の仲が悪くとも、馬子は守屋が好きだった。一緒にいて楽しいのだ。自分が憧れと尊敬を抱く彼だから······。

 取ってもらった薄布を握りしめる。風に晒されて寂しいほどに冷たくなっていたが、同時にふわりと楠の香を孕み、泣きそうな程に柔らかかった。


 守屋と馬子が大王の元で宰相となる、ほんの十年ほど前の出来事だった。







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